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約束

今月の目標、小説30記事。
それぞれ分割して30個の記事を作ろうと思ったけれど、まとまっていた方が読みやすそうだし、分けるのが面倒くさいことこの上ないので一記事にまとめました。
僕は勝った。
自分に勝ったぞ!

追記にある文章はすべてフィクションです。
言い訳とか、考えたことなどは、後でじっくり書きたいと思います。

1、鳥

 いつものように町外れの公園に向かった。
 寂れた公園だった。ブランコの鎖は錆び付いている。地面に埋め込まれたタイヤはくすんで、泥がこびりついていた。ベンチの塗装は剥がれ、剥き出しの木材が毛羽立っている。
 賽野謂介は、ベンチに一人座っている少女の隣に座った。
「今日は早く来てたんだね」
 謂介が話しかけると、灯は苦笑する。
「帰る場所が無いって、辛いね」
 灯の父親と母親は仲が悪かった。町では有名な話しだ。
 謂介は胃が重くなるのを感じたが、悩んでいるらしい灯を元気づけたくて、鬼ごっこをしようと誘った。
 二人きりの鬼ごっこが始まって、すぐに終わった。
 日が暮れて、二人は帰ることにした。
 その日の夜、灯は自殺した。
 遺書はなかった。
 学校に行くと、灯の机の上には菊の花が飾られている。

 灯が死んだ翌日、謂介はいつものように公園に向かった。
 一人だった。鬼ごっこもできない。
 ベンチに座って途方に暮れていると、空から大きな音が聞こえてくる。
 たくさんの毛の束で砂をかいているような音。
 見上げると、巨大な鳥が頭上を飛び去っていった。
 人の身長ほどもある巨大な鳥だった。
 鳥は人の顔をしていて、確かに謂介の方を見ていたと思う。
 それは灯によく似ている。
 その日の夜、灯の両親は何者かに殺害された。
 母親は目玉をくり抜かれていた。
 父親は首を締められ、大木の枝に突き刺さった状態でみつかった。
 警察は殺人だと断定したが、犯人が捕まるはずないと謂介は思う。

 奇妙な事件はもう一つ起きている。
 寝室に安置されていたはずの灯の死体が消えている。
 一家三人が死んだ家のリビングで、祈り婆が騒いでいる。
 祟りが起きたのだと。
 灯の死体にはモノが憑いたのだと。
 誰も本気にしなかった。聞こえないフリをしていた。
 謂介だけはその言葉を信じた。
「どうすれば呪いが解けるの」
 謂介は祈り婆にこっそり聞いた。
「祈るか、捕らえて殺すかだ。そうでなければもっと犠牲者が増えるぞ」
 祈り婆は髪をかきむしりながら叫んだ。

 いつものように公園に向かった。
 誰も来ない公園だった。
 謂介は待ち続けた。
 日が暮れて、深い夜が公園を包む。
 公園の外灯はずっと前に電球が切れている。手の先すら見えないほど暗い。
 空気を打つ翼の音が聞こえる。
 それは謂介の眼の前に降り立った。
 闇の中に2つの白い目玉が浮かび上がって見える。
 謂介は立ち上がり、
「今日は随分遅かったね」と言った。
 それは唸った。
 謂介は鬼ごっこをしようと誘った。
 彼女は二度と姿を現さなかった。



30分



2、アイス

 冷凍庫の扉を開けると、真ん中に仕切りが一枚挟んであって、下の段には製氷皿や冷凍食品が並んでいる。上の段には、謂介用の棒アイスが並んでいる。
 学校から帰ってきたら、一本だけ食べてもいいことになっている物だ。
 帰宅した謂介が、いつものように冷凍庫の扉を開けると、アイスの列に見慣れないものが並んでいた。
 アイスより細いくらいの太さで、あまり長くない、しぼんで見える。腐った野菜のように見える。
 摘み出してみると、誰かの人差し指だ。
 茶色の人差し指は、ぴんと伸びたまま、虚空を指さしている。

「兄さん、何をしているの?」
 背後から聞こえた声に振り返ると、妹の魃子が立っている。
「アイスを食べようと思って」
 言いながら、ポケットに人差し指を隠した。
「私も食べたいわ」
「ダメだよ。これは僕用のアイスなんだから」
「兄さんが二本食べたことにすればいいわ」
「そんなことをしたらお母さんに叱られてしまうよ」
「兄さんだけずるいわ」
「魃子ももう少し大きくなったら、アイスをもらえると思う」
「違うわ。兄さんは贔屓されているのよ」
 魃子は謂介を睨み、奮然としてリビングのソファーに座ってテレビをつけた。
 謂介は自分の部屋に入り、机の上にランドセルを置いたあと、アイスを食べ始める。
 ベッドに座って、ポケットから人差し指を出してみる。
 子供の指のようだ。
 どうして冷凍庫に指が入っていたのか。

 階下から獣のような叫び声が聞こえてくる。
 驚いた謂介が階段を飛ぶように降りると、冷凍庫を開けた魃子が顔を真赤にして怒っていた。
「私のアイスが無いわ!」
「魃子には最初からアイスなんて無いよ」
「あるのよ。母さんが準備したものではなく、私が自分で用意したのだから、確かにあるのよ」
「さっき僕が見た時には、僕のアイスしかなかったけど」
「兄さんのアイスは、水色をしていて、食べるとなくなるアイスよね?」
「そうだよ。サイダー味だよ」
「私のアイスは茶色で、いくら舐めても無くならないのよ」
「チョコレート味かい」
「いいえ。洗っていない犬みたいな味よ」
「そんな変な味のアイスなんて無いよ」
「そんじょそこらには売っていない、特別なアイスなのよ。兄さん、本当に見ていないの?」
「知らないよ」
 謂介は背中にびっしょりと汗をかいていた。
 ポケットに入っている指は、魃子のアイスだったのかもしれない。
「魃子はそのアイスをどこで手に入れたんだい」
「丸美から買ったのよ」
「いくらで買ったんだい。魃子はおこずかいをちょっとしか持っていないはずだけど」
「155円よ。私の全財産だったわ。私のお金で、丸美は普通のアイスを買って食べていたわ」
「丸美ちゃんはどうして特別なアイスを魃子に売ろうと思ったんだろう」
「聞いていないので、知らないわ。きっとお金が欲しかったんじゃないの。そんなことはどうでもいいのよ!」
 魃子は顔を真赤にして怒鳴っている。
 時々歯をがちがちと鳴らして、怒りを無理やり押さえ込んでいるようだ。
「何かがおかしいわ。私はさっきまで自分のアイスを舐めていて、それを冷凍庫に入れたばかりなのよ。兄さんが見ていないなんて、ありえないわ」
「僕を疑っているのかい」
「そうよ。兄さんが盗ったとしか考えられないわ」
 謂介は仕方なく譲歩することにした。
「僕が盗ったわけではないけれど、大切なアイスが無くなってしまった妹が可哀想なので、僕のアイスを特別に一本進呈するよ」
 魃子は劇的な速度で冷凍庫からアイスを抜き出し、獣のように食べ尽くした。
 それから二人でテレビを見た。

 翌日、家に帰ってきた謂介が冷凍庫を開けると、アイスの列に人差し指が入っていた。
「兄さん、私のアイスが分かる? それは私専用よ」
 背後から魃子の冷たい声が聞こえてくる。
「これはどこで手に入れたんだい」
 謂介は振り返る。
 魃子は左手を挙げて言った。
「丸美に作り方を聞いたのよ」



36分



3、スパイダーマン

 一本の綱を、逆さになった男がゆっくり降りてくる。
 極端に細い手足を学生服でに包んでいた。
「ここから先は俺の縄張りだ」
 男は恐ろしい顔で謂介を睨んだ。
「僕はスーパーに行かなきゃいけないんです。おつかいで。だから通してください」
「ダメだ。俺の縄張りは神聖なものなんだ。誰も通さない」
 綱にぶら下がった男は、まるで振り子のように体を揺らした。
 年上の恐ろしい行動に謂介は恐怖を抱く。
「母さんに言いつけますよ」
 謂介が言うと、男は腹の底から笑った。
「そいつは恐ろしいや。やってみればいい。お前の母親に何かできるとは思えないけどな」
 男は壁中に張り巡らせた綱につかまり、虫のように壁面を這って奥に消えた。
 謂介は母親を馬鹿にされたことに腹を立て、泣きながら家に戻った。

「まあ、謂介ちゃん。そんなことがあったの? 学生服ってことは、中学生かしら」
 謂介は母親に言いつけていた。
 そんな自分が情けなくもあり、ずっと泣いている。
「大丈夫よ。困ったことがあった時、ちゃんと言える謂介ちゃんを、お母さんは誇らしく思うわ」
 謂介は恥ずかしかった。
 子供扱いされている自分は無力なのだと思い知った。
「お母さんが行って、やっつけてあげるからね」
 母親は冗談っぽくウインクすると、台所の戸棚を開け、出刃包丁を取り出した。
「その人は虫のように壁を這って移動するんだったわね?」
 謂介は頷いた。

 母親と二人で男に出会った場所まで行くと、男はやはり綱にぶら下がっていた。
「ガキめ、本当に言いつけやがったな。そんなババアを連れ来たって無駄だぞ」
 男は振り子のように体を揺らすと、壁の綱に飛び移り、素早く移動をはじめた。
「謂介ちゃん。よく覚えておいてね。この世の中の全ての出来事には、きちんと理由があるのよ。あの男の子が、普通の人みたいに歩くのではなく、壁を移動するのにも、きっとわけがあるのだわ」
 母親は出刃包丁を振りかざし、壁の綱を片っ端から切り始めた。
 綱が自らの重みで垂れ下がっていく。
 男の動きはどんどん鈍くなり、綱があらかた切られてしまうと、地面にどすんと落ちた。
 母親は男が体を起こすのを手伝う。
 男は泣き始める。その姿は少年のようだった。
「俺はみんなに嫌われているんです。綱が無いと、移動できないから。みんなが俺に嫌なことをするから、俺もみんなに嫌な思いをさせてもいいと思ったんだ」
 母親は男の頭を撫でた。
「どうして普通に歩けないの?」
「うちの両親は頭がおかしくて、俺が床を歩くと殴るんだ。だから俺は壁中に綱を巡らせて、そこを移動するようになったんだよ」
「そう。あなたも被害者だったのね。でも、それならあなたは、誰よりも人の痛みが分かるはずよ。あなたのそのユニークな移動方法は、きっと誰かの役に立つ。誰かを泣かせるより、笑わせたほうが、きっと楽しいわ」
「すみませんでした。俺は、目が覚めました」
 男は生まれ変わったように明るく笑い、壁に綱を張りつつ去って行く。

 スーパーに向かう道には、あちらこちらに綱が垂れている。
 壁には縦横無尽に綱が張り巡らされ、まるで蜘蛛の巣だ。
 謂介が通りかかると、どこからともなく学生服の男が現れ、にっこり笑って去っていく。
 彼の後ろには、何人かの少年が並んでおり、みんなで壁を移動していく。
 縦横無尽に壁を這う彼らは、地面から離れることができない人間より、自由に見える。



40分



4、猫耳

 町の中心部に乱立するマンション群は、子供にとって迷路そのもので、当のマンションに住んでいる子供達ですら迷うことがあった。
 全てのマンションは白で統一されており、廊下には飛び降り防止の為の鉄格子がはめられていた。棟にはそれぞれ番号が与えられていたが、1号の隣が24号であり、24号の隣が73号だったりした。どこかで致命的な計画ミスがあったのは間違いなかった。
 方向感覚を狂わせるマンション群の渦を中心に向かうと、巨大な壁と壁に挟まれた狭い空間に、時代錯誤な平屋がある。くすんだ木材で作られた、今にも倒壊しそうな駄菓子屋だ。もともとは白いペンキで書かれていたであろう屋号は、時間と風雨に削られ、今となっては文字と認識することすら難しいシミになっている。
 駄菓子屋の正面には、いつのものだか分からないガシャポンが3台置かれ、ビニールの屋根がついたアーケードゲーム機の死体が横たわっている。子供の手が届くように低く作られた商品棚には原色の菓子と他愛ない玩具が並んでいる。更に店の奥に目を向けると、陽の届かぬカウンターの向こうに、一人の少女が座っているのが分かる。綿の抜けた椅子に座っている彼女は、何を見るでもなく店の外を眺め、身じろぎ一つしない。頭頂からにょっきり生えた猫の耳もあいまって、その姿はまるで悪趣味な人形のようだと謂介は思う。
「やって来たね、お兄ちゃん」
 丸美は依然として空中を眺めながら、歌うような口調で言った。
「丸美ちゃん、こんにちは。それと、僕は丸美ちゃんのお兄ちゃんではないよ」
「もちろんだよ、お兄ちゃん。あたしみたいな可愛くて可憐な女の子が妹じゃなくて残念だったね、お兄ちゃん。後悔してもしきれないと思うけれど、運命ってそういうものなんだよね、お兄ちゃん。でもねお兄ちゃん、全ての願望が全て叶う現実があるとしたら、人は果たして"何かを望むこと"が出来るのかな、出来ないのかな、願った瞬間に叶うのなら、願望は無くなってしまうんじゃないかな、お兄ちゃん。夢も希望も願望も欲望も無い世界って、本当はディストピアじゃないのかな、お兄ちゃん。だとするなら、お兄ちゃんはあたしのお兄ちゃんでないことを幸福だと思わなければならないのかもしれないね、お兄ちゃん。だってあたしを妹にしたいという願望を力にして、お兄ちゃんは生きているのだから」
 丸美は表情を変えずにつらつらと述べた。
 謂介は棚からガムを2つ取ると、カウンターの上に静かに置く。
「丸美ちゃんを妹にしたいなんて思ってないよ。魃子だけで手一杯だから」
 謂介がため息混じりに言うと、丸美は口の端をほんの少しねじ曲げた。
「あたしを妹にしたいと思っているお兄ちゃんは現実にいなくてもいいんだよ、お兄ちゃん。あたしを妹にしたいとお兄ちゃんが思っていると思っているあたしがいればそれで全ては丸く収まるんだよ、お兄ちゃん。20円になります」
 謂介はポケットからお金を取り出し、カウンターに乗せる。
「丸美ちゃんの言うことはいつも難しい」
「難しくても、いつか答えにたどり着くよ、お兄ちゃん。この店に来るのと同じくらい、それは簡単なことなのかもしれないよ、お兄ちゃん」
 謂介は頭をかいて、ポケットにガムをいれる。
 店の外に向かって歩きながら、たった今思いついたような口調で言ってみる。
「丸美ちゃん、魃子の指を元に戻してくれるかな」
 丸美の猫の耳がぴくっと動いた。
「200円になります」
「丸美ちゃん、商売上手だね」
 頭を右に傾けて、丸美は無言を貫いた。
 謂介はカウンターにお金を置いて、店の外に出る。
 マンションの渦を抜ける為に、また何時間もさまよい歩かなければならない。
 丸美が思っているほど簡単ではないと謂介は思う。


35分


5、VR

「とんでもなくすんばらすぃー機械なんだぜ。謂介は見たことも聞いたこともないと思うぜ」
 業田は両手を広げて感動を表現した。
 目を限界まで開け、歯をむき出して笑っていた。
 どこか常軌を逸している。
「でもお金がかかるんだろう。そういうのは大人用だから高いはずだ」
 謂介がしょぼくれながら言う。
 ポケットの中には小銭が少し入っているだけだった。
「だから、とんでもなくすんばらすぃーんだって言ってるだろ! すんばらすぃーってことは、安いってことなんだよ! 一緒に行こうぜ!」
 業田は痛みに耐えているように歯を食いしばり、よだれを飛ばしながら叫んだ。
 半信半疑だったが、謂介はうなずいた。
 強引に腕を引っ張られながら町の中を疾走するうちに、目的の家が見えてくる。
 どこからどう見ても普通の家だった。灰色の壁で、茶色の屋根で、2階建てで、小さな庭があって、物干し台が設置してあり、狭いガレージには軽自動車が停まっていて、玄関には縦長の手すりのようなドアノブがついていて、看板には『VR屋』と書いてある。
 VR屋。
 たしかに見たことも聞いたこともないと謂介は思った。
 業田は怒った犬のように飛び上がりドアホンを連打した。
 しばらくすると眼鏡をかけた白髪の男性が出てくる。柔和な笑顔が顔面に貼り付いているような老人だった。
「おっさんおっさん! VRやりたいんだ!」
 業田が叫ぶと、老人はスローモーションで頷き、ドアを開け放った。
 老人の脇を業田がすり抜けていく。靴を脱ぎ散らかして短い廊下を突っ走り、突き当りのドアを勝手に開けて中に入っていった。
 友達が無礼なことをして怒られるのではないかと身を縮めていた謂介だったが、老人は笑ったままだった。
 恐る恐る靴を脱ぎ、業田が入ったドアに首を突っ込む。6畳ほどの畳敷きの部屋だ。
 窓もなく、照明も灯っていなかったので酷く暗かったが、室内には一切の家具も無く、何かを壊したりする可能性はなさそうだった。
 6畳の部屋は襖で隣の部屋と区切られているようで、業田は目を血走らせて襖を睨んでいた。
 謂介が業田の横に静かに座ると、老人がゆっくり入ってきて、部屋の後ろに何かを置いた。
 長方形の台にミラーボールをつけたような機械だった。
 老人がスイッチを入れると、球体がゆっくり回りはじめ、真っ赤な光を部屋中にまき散らした。
「はじまるぞはじまるぞ謂介! あの襖を見ろ襖! 襖ァァ!」
 業田が熱に浮かされたように喚き始める。
 老人はゆっくりとした動作で部屋を出ていき、ドアを締めた。
 はぁはぁと息を荒くしている業田の興奮だけが部屋に充満している。
 唐突に目の前の襖が開く。
 全裸の女が立っていた。女は顔に猿のマスクを付けている。体は皺だらけで、シミが広がっており、酷くくたびれている。どう見ても老婆だった。
 業田はぐごごごごごと喉の奥で奇妙な音を鳴らし、泡を吹きながら両手で畳を乱打した。
 老婆がゆっくりと襖から近づいてきて、眼の前で踊り始める。
 両手を広げ、頭上でひらひらと動かす。足はガニ股になっていて、引きつったように腰を振っている。
 全ての光景が真っ赤に染まっている。
 しんと静まり返った室内に、郷田のうめき声と、老婆の奇妙なステップの音だけが響いている。
 謂介はその光景に心から恐怖していた。吐き気と頭痛を感じた。すぐに逃げたいと思ったが、目の前の他人の裸体から目を逸らす事ができない。しなびた乳房が肉を打つ湿った音が聞こえる。陰毛が奇妙なボリュームで肌に貼り付いている。太ももの付け根は筋張っている。
 老婆の踊りはバリエーションが一つしか無く、延々と単調な踊りを繰り返す様は、狂気すら感じた。
 永遠に続くかと思われた時間は唐突に終わる。
 老婆は襖の奥に戻り、振り返って観客に頭を下げた。
 それから無造作に猿のマスクを取り払う。
 長い髪がこぼれる。
 大きな目。形の良い眉。通った鼻筋。微笑をたたえた口元。
 謂介が見たこともないほどの美女の顔が、老婆の体の上にあった。
 女は何も言わずに襖を閉める。
 同時に、老人がドアを開けて部屋に入ってきて、部屋の後ろの機械を片付けた。
「なあっ、とんでもなくすんばらすぃーだろう! VRって!」
 業田が頭をかきむしりながら叫んだ。
「たしかに凄かったけど、やっぱり大人用じゃないか、こんなの」
 謂介が目眩を押さえ込みながら言う。
 老人は、酷く悲しそうな顔でVRマシンを抱え、少年達の会話を聞いている。



40分



6、鉛筆

 謂介はベッドに寝転んで、窓から空を眺めている。
 夏の陽射しが満ちた空は白く発光している。
 時折小鳥が視線を横切る。限りなく平穏な一日だ。
 いつまでもそうしていたかったが、宿題が残っている事を不意に思い出し、胃が重くなるのを感じる。
 どうせやらなくてはならないのなら今やっても一緒だと無理矢理に気分を高め、謂介は机に向かった。
 鞄からワークブックと筆箱を出し、机の上に並べる。
 ほとんど使われていないワークブックの表紙は、てらてらと輝いて、開かれるのを今か今かと待ちわびているようだった。
 それを見ているだけで謂介のやる気は霧散した。
 机に伏せて足をぶらぶらさせたり、頬杖ついて空想にふけったりしているうちに、宿題などというものがあること自体に問題があるような気がしてきた。
 本来、勉学というものは自らの意欲をもって好奇心を満たしたり、目的遂行のための道具として習得されるもので、決して強制されてやるものではないはずだ。
 無理矢理に教え込まれた知識になんの意味があるのか。
 どうせ大人になれば忘れてしまうのに。
 母親などは、分数の足し算のやり方すら答えられないではないか。
 こんなものは大人が優越感に浸りたいが為にでっちあげた子供の手枷に過ぎない。
 私達がやってきたことなんだから、あなたもやりなさい――そんな思考停止がまかり通っているのだ。
 自分たちだけ苦しんだと思うのが嫌だから、子供にも無理やり同じ苦痛を味あわせようとしているに違いない!
 謂助は奮然と椅子から飛び降り、どうにかしてこの世から宿題を消す方法を考えた。
 小一時間も考えただろうか、結局、宿題を無くすには教育自体を消し去る他なく、それは日本を原始時代に逆行させることになり、結果として宿題以上の苦痛が待っていると結論した。
 諦めかけていた謂介だったが、自分を苦しめる宿題に一太刀なりとも切り込みたいと考え、炎天下の道に飛び出した。
 祈り婆の家に向かっている。
 宿題も教育も消せないなら、せめて筆記用具が無くなればいいと考えた。

 祈り婆は町外れの塔に住んでいる。
 背の低い尖塔で、灰色の石を積み上げて作られている。壁には蔦が這っている。
 入り口には重厚な木のドアがついている。
 ノックすると、ゆっくりと祈り婆が出てくる。
 祈り婆は緑色に濁った目で謂介を見ている。
「お願いがあるんです」と謂介は小さな声で言う。「この世から鉛筆を消してほしいんだ」
 祈り婆は口の中でもごもごと何かを噛みながら、
「どうしてそれが必要なんだね」と聞く。
「この世界の在り方が間違っているからです」
 謂介が答えると、祈り婆は真っ赤な口を開けて笑う。
「祈ってやろう。あんたが言うことは、間違っていないからね」
 ドアを大きく開き、謂介を塔の中に入れる。
 塔の中は外壁と変わらぬ石造りで、壁の祭壇以外に目立った家具は無かった。
 祈り婆が祭壇の前に膝をつき、詠唱を始める。
 窓から入る陽射しが驚くほどの速さで消えていく。
 祈祷の声を聞きながら、謂介の意識はゆっくりと薄れていった。

 自室で目覚めた。
 ベッドの目覚まし時計には日付が表示されている。
 どうやら朝方のようだった。外はまだ太陽が上っていない。
 慌てて机の前まで走り、筆箱を確認すると、鉛筆が消えていた。
 謂介は満面の笑みを浮かべた。
 何故か眠ってしまっていたようだが、宿題をやらずに済む理由はできた。
 階下に降りて朝食を作っている母親に鉛筆のことを尋ねたが、そんなものは見たこともないという。
 謂介は祈りが通じたことを確信した。
 意気揚々と学校に向かい、絶望することになった。
 誰も鉛筆を持っていない。その存在も覚えていない。
 そこまでは謂介の思惑通りだったが、謂介以外の全員がワークブックを教師に提出していた。
 鉛筆の消えた世界では、誰もがボールペンを使っていた。



 40分



7、川遊び

 夏が来た。
 心の中に、言い知れぬ感情がこみ上げてくる。
 それは焦燥に似ている。不安に似ている。それでいて快感にも似ている。どこか懐かしくもある。
 謂介は窓から外を眺めている。
 誰かが電話で自分を遊びにでも誘ってくれないかと思っている。
 いつまでもそうしている。

 ノックもせずに魃子が部屋に入ってくる。
 魃子はピンク色の水着を着ており、腰の辺りに浮き輪をはめている。
「兄さん、暑いわ」
「涼しそうな格好をしているけど」
 魃子は自分の姿を白々しく見下ろし、
「涼しそうな格好をしたからと言って、涼しくなるわけではないわ。そんなことはどうでもいいのよ!」
 魃子は突然、激昂した。
「私は川遊びに行きたいのよ。兄さんも、そうだと思うけれど」
「川遊びに行きたいとは全然考えていなかったけれど、魃子がそう言うのなら、兄として同伴することにするよ」
「苦しい言い訳ね。兄さんの顔を見ればわかるのよ、暇を持て余して死にそうだって」
 二人は川に向かうことにする。
 自転車のかごに海水パンツの入ったナップサックをつっこみ、荷台に水着の妹を乗せ、謂介は自転車を走らせる。
 川遊びに最適な川は、町にひとつしかない。
 永日町を分断するように流れている刈非川の上流である。
 自転車は住宅街を抜け、刈非川に出る。とってつけたような土手を上流に向かって進むと、周囲には緑が増え、舗装されていた道は砂利敷に変わった。
 滝のような汗をかきながら謂介は自転車を押している。その横を歩く魃子は涼しい顔をして口笛を吹いている。
「魃子、僕は思うんだけれど、川じゃなくてプールで良かったんじゃないかな」
「プールではダメに決まっているじゃない」
 魃子は眉をしかめて言う。
「どうして。涼しいし、水で遊ぶという点では同じじゃないか」
「誰が水で遊びたいと言ったの?」
「魃子がそう言ったんじゃないか。川遊びをするって」
「そうよ。私は川遊びがしたいのよ。水で遊びたいわけではないわ」
「一緒だと思うけど」
「全然違うわ」
 謂介は首をかしげた。確かにプールと川では色々と相違点がある。
 川には水生生物がいるがプールにはいない。
 川には水の流れがあるが、永日町の狭いプールには水流を生む装置などない。
 しかし大きな違いと言えばその程度で、謂介にはほとんど違いが無いように思われた。

 砂利道をしばらく進んでいると、川は細く、浅くなっていった。河原に降りる坂道が現れ、二人はゆっくりと降りていく。途中、川の更に上流の方に、白い棒のようなものが刺さっているのが見えた。
 流れの真ん中にささった棒は、大人の胴ほどの太さに見え、長さは10メートルほどありそうだった。白い棒は時々、風になびく布のようにくにゃりと折れ曲がったが、しばらく経つとまっすぐに戻った。
「あれはなんだろう」
 謂介は特に何も考えずに言う。
「何を言っているの兄さん。ただの川よ」
「川じゃなくて、あの白い棒のようなもののことだよ」
 魃子は訝しんだ顔で謂介を見ると、
「だから、あれは川じゃない」
 苛立った口調で言い放ち、棒が刺さっている場所まで走っていく。
 謂介は魃子を止めようと何度も叫んだが、魃子が止まる気配は無かった。
 棒の根本に立った魃子が、手で白い棒に触れると、それはみるみる膨らみ、川幅程もある球体に変化した。
 謂介が思わず走り寄ろうとした時、球体は巨大な爆発音を響かせて破裂する。
 球体の中に詰まっていたのは膨大な量の水で、物凄い速度で下流に向かって流れて行く。
 波頭に浮かび下流に向かって流されている魃子は、いつまで経っても川に入ろうとしない兄に冷たい視線を送っている。



50分



8、スイカ

 謂介が公園に向かうと、広場に人影が見える。
 近づいてみると、魃子と丸美と業田だ。三人は地面に置かれた丸いものを囲んで立ち尽くしている。
 それは真っ黒に塗り尽くしたスイカに見えた。
「みんな、何をしているの?」
 謂介が近寄ると、魃子だけが顔を上げる。
 自分の話を唯一聞いてくれる相手が実の妹だけというのもなんだか悲しかった。
「兄さん、こんなもの見たことある?」
 魃子が真っ黒なスイカに指さして言う。
「無いね。爆弾か、スイカに見える」
「そうね、たぶん爆弾かスイカよ」
 魃子が突き放すように言い、謂介は更に悲しくなった。
「みなさん、あたしから提案があるよ」
 木の棒で黒スイカを突っついていた丸美が言う。
「この丸い物の正体を確かめるために叩き割ってみようと思うんだよ」
 なんとなく丸美が言いそうなことだと謂介は思った。丸美の思考はどこか飛躍的していて、非人道的なところがある。
「でも丸美ちゃん、もしこの丸いものが危険なものだったら、叩いた瞬間によくないことが起きるかもしれないよ」
「大丈夫だよお兄ちゃん、その辺のことはちゃんと考えてあるよ。これを叩くのはあたし達ではなく、ここにいる業田がやるよ」
「そうね、兄さん。業田に任せましょう」
「それでいいのかい、業田くん」
 返事もせずに業田は、丸美が地面に置いた木の棒を持って振りかぶっていた。
 謂介と魃子と丸美は蜘蛛の子を散らすように逃げ出している。
 業田が全身の力を込めて木の棒を振り下ろしたのが見えた。
 謂介はその場に伏せ、両手を後頭部に乗せて口を開けて爆発に備えた。
 だが、公園に響いたのは爆発音ではなく、鉄を打つような甲高い金属音だけだった。
 業田の棒が弾かれるのが見える。
 その後、狂ったように業田は棒を振り下ろす。棒がへし折れたあとは蹴っていた。踏みつけ、拳で殴りつけた。
 だが何も起こらなかった。
 しばらく格闘していた業田だが、黒スイカに何も出来ることがないということがわかると、悔しげに公園を出て行った。
 謂介と丸美と魃子はゆっくりと黒スイカに近づいた。
 先程見た状態と全く違いがない。
 丸美と魃子はつまらない物を見る目つきでそれを眺めたあと、公園を出ていった。
 謂介は一人、いつまでも正体不明の球体を眺め続けた。



9、花火

 いつもの公園に足を運ぶと、砂場の真ん中に灯が突っ立っている。薄いピンク色のTシャツを着ている。白い半ズボンを履いている。サイズの全く合っていない巨大なサンダルを履いている。デザインを見る限り男性もので、おそらく父親のものをつっかけて家から飛び出してきたのではないかと思われた。思われたが、あるいは灯が自らそう思われるようなデザインのサンダルをあえて選んだのかもしれなかった。灯はいかにもそういった韜晦めいた行いを好む、ということを謂介は知っている。謂介が知っているということを灯は知っている。そういう人間だった。
「謂介」
「灯」
 二人は名を呼び合い、お互いにうなずきあう。
「私はいずれ思い出にされるんだろうけど」と、灯は謂介にだけ分かる灯らしさ溢れる露悪的でひどく卑屈なことを言う。
「思い出にされるくらいなら死を選ぶような女よ、私は」
 何故か勝ち誇ったような顔をして謂介を見下ろし、野性的に乱れたショートカットを右手で払った。ショートカットは別段揺れも光りもしない。
「どんなものだって人だって事件だって結局は思い出になると思うけどね、僕は」
 言い返した謂介は、自分の台詞が灯の言語感覚に犯されていることに気が付き、気まずそうに顔をそらしつつ、それはそれでいいのかもしれないと考え直す。人と人とが交わることの意味とは新しい視点の獲得に他ならないのではないのか。考え方、物の見方感じ方、好きなものの理由嫌いなものの理由、その体系を理論を取り込んで自らの思考フレームに組み込むこと。
 それができないなら。
 認め合うということができないなら。
 そのときまでの話だけれど。
「手に持っているのは何?」
 謂介が問うと灯は露骨に眉をしかめ、
「会ってそうそう相手の持ち物に口を出すなんて、いやしいセンス爆発よそれ」
「気になったらから聞いただけだよ」
「花火」
「えっ?」
「花火をもらったから持ってきたってわけよ。やりたいでしょう、私と」
「灯とでなくてもいいけど花火はやりたい」
「すべて灰にする。この世界、すべて」
「灯は面白いことを言うよ」
 灯りは頬を真っ赤に染めながら言う。
「私の言うことなんてゴミみたいなものだよ」
 真昼間から、人気のない公園で二人、花火をしている。
 真昼の花火は色が薄い。
 しかしそれは確かにある。
 熱があり、光があり、音がある。
 見えにくいからといって、なかったことにはならない。
 謂介は思い出している。思い出にしてしまった親友のことを。



10、ゲーム

 夏で、晴れで、夏休みだった。
 謂介は慎重な手つき割り箸を置いた。置いた割り箸の下には更に割り箸があり、それは何重にも重ねられ、複雑な建築物様の構造を作り上げていた。
 作品名は『蜃気楼の塔』
 夏休みに入ってから一切の予定が無かった謂介が、暇にまかせて作り始めた作品だった。 
 謂介は、死ぬほど虚しかった。箸をひとつ積み上げるごとに社会からより深く隔絶されていく気がする。どうして自分には遊びに誘ってくれる友達が一人もいないのかと深く深く苦悩しながら、それでも幻に逃げ込むようにして頭の中の尖塔を現実の形にし続けている──と、リビングの前にある電話のベルがけたたましく鳴り響いた。謂介は野生の獣のような速度で階段を駆け下りると、リビングから出てきた母親より早く受話器を取り上げる。
「もしもし謂介です!」
 誰か友達がかけてきたのだとしたら自分が出た方が話を進めやすいはずだ、という過剰な気遣いが表出した形だった。名字ではなく自らの名を名乗っているところからも、「かけてきたのは僕の友達であるに違いない」という思いこみの激しさが浮き彫りになっており、なかなか悲しい感じだった。
「あ、お兄ちゃん。ちょうどお兄ちゃんに用事があったんだよ、お兄ちゃん」
 この特徴的なしゃべり方、そして自分をお兄ちゃんと呼ぶ人間はこの世でただ一人、
「丸美ちゃん、こんにちは。どうしたの?」
「お兄ちゃん、暇だったらうちに遊びに来ない? とても面白いゲームを買ってもらったから、みんなでやりたいのよ、お兄ちゃん」
「今ちょうど暇になったところだから、行くよ」
 謂介は思いきり嘘をついていた。見栄であった。
「本当に今ちょうど暇になったの? お兄ちゃん。本当は暇を持て余して、蟻地獄に一匹ずつ蟻を入れてにやにやしていたんじゃないの? お兄ちゃん。あるいは、体中に魚の鱗を張り付けてリアル半魚人の真似をして世界を呪ったり、箸を重ねてお城を造っていたりしたんじゃないの? お兄ちゃん」
「うううん。ぼくはそんな薄暗い、どこか陰湿な、変なことはしないよ」
 謂介は世界を呪いながら言った。
「わかったよ、お兄ちゃん。じゃあなるべく早く来てね、お兄ちゃん。早くこないと、お兄ちゃんの席はなくなっちゃうかも」
「すぐ行くよ」
 言うと同時に受話器を叩きつけ外に出ている。
 自転車に乗った所までは意識があったが、そこから丸美の家に着くまでの記憶が全くなかった。体感的には瞬間移動に似ていたが、全身には激しく汗をかいていたし、歩けないと感じるほどの疲労があった。
 丸美は、いつものように店の奥の暗がりの、カウンターの向こうに座っていた。頭には猫の耳がついていて、顔には笑みを浮かべている。
「早かったね、お兄ちゃん。さっき電話をかけたばかりなのに、まるで瞬間移動だよ、お兄ちゃん」
「自分でも驚いてるんだ。まさかこんなに早くつくなんて。きっと遅くなってはいけないという僕の真摯な想いが、深層心理に影響して体のリミッターを解除し、意識を失わせるほどの運動能力を発揮したんじゃないかな」
 謂介は言いながら自らの特殊能力の兆しに感動していた。
 丸美はくすくす笑った。
「違うよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは操作されたんだよ、お兄ちゃん」
「何を言っているの、丸美ちゃん」
 謂介が言うと、丸美はカウンターの下から携帯ゲーム機を取り出した。
「このゲームは、お兄ちゃんの行動を操作できるゲーム機なんだよ、お兄ちゃん。あたしはプレイヤーとしてお兄ちゃんを操作していたんだよ、お兄ちゃん」
 謂介は頭を抱えた。
「そんなゲームがあるわけないよ……そんなのは変だよ、何かの勘違いだよ」
 急に真顔になった丸美は、ゲーム機の電源をぷつりと切った。画面が真っ暗になる。
 謂介は急に体が軽くなるのを感じる。
「用事ができたので、今日は帰ってよ、お兄ちゃん」
 丸美はなんでもないことのように言う。
 謂介は何も言い返さず、自転車に乗って家に向かった。
 帰り道は、どこまでも続いているように感じられ、果てしなく長かった。
 さっきの状態が、本当に操作された結果だとするなら、元に戻して欲しいと謂介は思う。



11、廃墟

 永日町を分断する刈非川の上流から少し逸れた場所に小道がある。
 砂利を敷き詰めていたであろう道は、生命力の強い草によって蹂躙されてはいるが、注意して見ればさほどの時間もかからずみつけることができる。
 十分ほど奥へと進んでいくと、深い森の中に、朽ちた洋館がある。木々を切り拓いて作られた人工の草原に横たわるその廃墟は、眠るように息絶えた巨大な動物を思わせた。
 元は白かったであろう外壁は灰色にくすみ、堅いツタが覆っている。三階建ての全ての窓は割れているかヒビが入っているかしている。窓は森の小道に向けられていて、黒々とした室内の闇から、誰かが覗いていてもおかしくない気がする。
 正面玄関と思しき両開きのドアは見るからに分厚そうで、風雨と時の重みにも耐え未だに侵入者を拒み続けている。
 誰が何の為に作ったのか知る者はいない洋館だったが、その存在は謂介の住む永日町の住人にとっては広く知れ渡っていた。
 夏休みを持て余していた謂介は一人、廃墟の洋館へ自転車を走らせる。
 何か用があるわけではない。暇つぶしの策があるとも言えない。ただ、何か面白いことがやってくるのを待っているだけでなく、自ら行動しなければ何も変わらないということに気がついたのだった。
 謂介は自分が求めている物事を完全には把握できておらず、今は理論を確立させる段階だと考えており、つまるところ、犬も歩けば棒に当たる方式で、何かに出会えばいいと漠然に考えていた。
 謂介は汗みずくで洋館にたどり着き、30分ほどうろうろしたあと、急に何もかも虚しくなり、帰宅した。



30分



12、銀行

「大切な財産を守るためのベストパートナー、丸美銀行です」
 電話の向こうからはそんな声が聞こえてくる。
 謂介は頭をかきながら虚空を見つめた。丸美ちゃんがまたよくわからないことを言い始めたなと思っていた。
「丸美ちゃん、こんにちは。丸美銀行ってなんなの?」
「そのまんまだよお兄ちゃん。あたし、銀行を開くことにしたの」
「銀行って、お金がたくさんないとできないんじゃない? それに、そんなに簡単に開いていいものなの?」
「簡単だよお兄ちゃん。金融庁に新銀行の免許申請をして銀行法にクリアすればそれでいいのよお兄ちゃん。銀行なんて結局はただの株式会社なのだから、開こうと思えば誰でもできるよ、お兄ちゃん。ちなみに、金なら余っているし、金があればたいていのことは解決するのよお兄ちゃん」
 謂介は、確かに丸美ちゃんなら余るほどの金を持っていそうだと考えた。丸美ちゃんの住むあの駄菓子屋を見る限り、家が金持ちだとは思えないが、丸美の商売上手な性格がそう思わせるのだった。
「銀行ができたのは分かったけれど、どうして僕に電話をかけてきたの?」
「もちろん商品の売り込みの電話だよ、お兄ちゃん。つまりセールス電話だよ、お兄ちゃん」
「友達にセールスの電話をかけている自覚はあるのかい」
「もちろんよ。あたしは友達に得してほしいと考えているのよ、お兄ちゃん。あたしが考え出した商品は、とってもお得なの。だから是非お兄ちゃんにもおすすめしたいと考えているのよ、お兄ちゃん。儲けられるのよ、お兄ちゃん」
「とりあえず話だけ聞いてみようかな」
 丸美が友達と言ってくれたのがまず嬉しく、自分を儲けさせてくれると言ってくれたのが、謂介には嬉しかった。
「じゃあ少しだけお時間いただきまして、商品の説明をさせていただくね。まず商品名なんだけれど、スーパー丸美ドリームフライ預金というの。夢に向かって羽ばたくイメージで命名したよ、お兄ちゃん。この商品は、金利がとても凄いの。なんと驚異の日利10パーセントだよ。友達だけの限定商品なの、お兄ちゃん。今なら少額の元本で口座開設できるというメリットもあるよ、お兄ちゃん。どうです?」
 日利10パーセントなんて聞いたことがない。今この瞬間に1000円預金したら、明日には1100円になっているということだ。
 きっと丸美ちゃんは自分が言っていることが理解できていないに違いないと思った。もしくは、銀行を開設したばかりでお客がいないので、多少無理をしてでも顧客がほしいから無謀とも思える商品開発・運用を開始したのだろう。
 であるならば今がチャンスだ。友達としての丸美の気遣いを踏み台にする形になるが、儲けるチャンスを逃したくない。
「是非そのプランで口座開設したいんだけれど、手続きはどうしたらいいのかな」
「そんな面倒な手続きを省く努力をしたのが丸美銀行だよ、お兄ちゃん。今から係の者が預金を受け取りに行くので、彼女に渡してくれればそれで口座開設は完了だよ、お兄ちゃん」
 丸美が言い終わったとたん、リビングから妹が走ってきて、謂介のポケットから財布を奪い、外へ走って行った。
「妹が僕の全財産を持って行ったんだけど」
「そのお金で口座を作るよ、お兄ちゃん。じゃあまたね」
 電話が切れた。謂介はどことなく不安を覚えた。
 一週間後、どうしても欲しいプラモデルがあった謂介は、預金からお金を下ろそうと思い、丸美に電話をかけた。
「丸美銀行の丸美ちゃん。お金を下ろしたいんだけど」
「お兄ちゃん、悲しいお知らせがあるよ」
 謂介の全身が総毛立った。
「丸美銀行は経営破綻を引き起こして倒産してしまったよ、お兄ちゃん」
「そんな馬鹿な! じゃあ僕のお金はどうなるの!」
「どうしようもないのよ、お兄ちゃん。銀行はもうなくなったのよ」
 電話が切れた。
 何度かけてもつながらなかった。
 スーパー丸美ドリームフライ預金は、丸美の高飛びによって夢と消えた。



13、アメリカ

 狭い部屋に一人でいると、まるで自分が世界にたった一人であるように感じられる。
 謂介は、もっと広い部屋が欲しいと思う。
 東京ドーム三個分の、自分だけの空間があったら何でも好きなことができる──。
 そんな空想を膨らませてため息をついていると、階下から激しい音が聞こえてくる。
 謂介は階段を飛ぶようにして下りた。
 玄関のドアを、誰かが激しく叩いている。
「どなたですか」
 謂介が不安そうに呼びかけると、
「俺だ、俺!」
 横暴そのものの返事が響いた。
 業田である。
「ここを開けろ! 出てこい謂介!」
 謂介がおそるおそるドアの鍵を開けると、真っ黒に日焼けした業田が満面の笑みで姿を現す。

「謂介、アメリカに行きたくねえか! アメリカだよアメリカァァ……!」
 口の端から涎を垂らしながら業田は言う。
 あまりの迫力に言葉を失いつつ謂介はうなずいた。
 よし行くぞ、と業田は謂介の手を引いて走り出した。腕がもげそうになった。
 二人がたどりついたのは小学校の校庭だった。 息をついた謂介は校庭に座り込んで聞いた。
「なんでこんなところに来たの? アメリカはどうしたの?」
「ばっかやろう! ばか!」
 業田はののしりながら腹を抱えて笑い出した。
「ここがアメリカだろうが! 見ろよ空を!」
 業田は灼熱の陽光降り注ぐ空を指さして言う。
「小学校の校庭だと思う」
 疲れ切って言う謂介に、
「この空は」業田は自信たっぷりに「アメリカにつながっている」
 空を見上げた。太陽がまぶしかった。
 そして謂介は、自分以外の世界が、無限に広がっているのを確かに認識した。
 裏山で鳴いている無数の蝉達──彼らがしがみついている木々の皮からにじみ出る樹液につられてやってくるカブトムシ──その中の一匹が山を越えて飛び立つと、遙かに続く人の町──おもちゃのように小さい家々と地平線にかすむ電波塔──高射砲のように発信器から飛び出した電波は人智の及ばぬ速度で大気圏を抜け弧を描いて海をまたぎ地球の反対側の大陸へ飛び込んで、アリゾナの小学校の校庭で、自分と同じポーズをして空を見上げている金髪の少女の元へ届く──。
「なるほど」謂介はうなずいた。
「たしかにここは、アメリカだ」



 30分



14、二次元

 深夜二時、あたりは陶器のように静まりかえっている。
 ベッドに入っても眠れなかった謂介は部屋の灯りをつけ、本を読み始めた。もう何度も読んだ漫画本だった。漫画にも飽きると、不意に心にぽっかり穴が空いたようなむなしさが溢れてくる。寂寞とした夜が心の中まで入ってくるようだった。
 静けさは寂しさを増幅させる気がした。人の声が聞きたくてテレビをつけると、どのチャンネルにも砂嵐しか映っていない。テレビが壊れたのかもしれない。ざあざあという音は余計に不安を煽ったが、謂介は砂嵐から目が放せない。心の隙間に灰色の砂が流れ込んでくる。催眠術にかかったように、まばたきもせずに、画面を眺め続けた。
 一体どれほどの時間が経っただろうか。気がつくと砂嵐は消え、真っ白な画面が映し出されている。音はなかった。
 自分は一体何をしていたのだろうか。そろそろ寝ようとリモコンに手をかけた時、テレビ画面に動くものが映った。
 どこかで見たことがある顔の女の子だった。
 彼女は画面下から突然現れ、こちらを無言で見つめていた。のぞき込んでいるような目つきだった。カメラのレンズに反射する自分の顔を見ようとしているのかもしれない。
「誰かいるの?」
 かぼそく、女の子がつぶやいた。テレビでよく聞く作ったような声ではなく、自然な声だ。
 反射的に謂介は返事をしようとして、それがテレビの中の出来事だと思い当たり、頭をかいた。
 女の子の呼びかけはあまりに自然過ぎて、まるで自分に話しかけているように感じられた。
 しばらくこちらをのぞき込んでいた彼女は、不意に視線を切って、画面の奥に歩いていく。真っ白な空間は、影の出来ないように照明を加えられた部屋のようだった。女の子は画面の奥まで進むと、退屈したように振り返って、すねたような顔でこちらを見た。
 テレビに再び砂嵐が戻る。
 謂介は、食い入るように画面を見つめ続ける。



15、殺人

 壁にかけられたクモの巣のような縄に、首をもぎとられた老人の死体が絡まっている。力なく垂れ下がった蝋のような色のそれは、夏の熱気の中に悪臭を放っていた。
 最初に老人をみつけたのは、近所に住む高おらび充朗(71)だった。彼は日課の早朝散歩にでかけるために、午前五時に家を出た。充朗の散歩ルートは毎日同じだ。家を出て住宅街を抜け、国道を北進し川沿いの小道を通って再び住宅街の方面に戻ってくる。30分ほどの道のりだった。
 充朗は、住宅街に張り巡らされた縄をクモのような集団が行き交っているのは以前から知っていた。また彼らが困難な家庭環境の元に生まれた子供たちであるということも聞き及んでいた。クモの集団に対しては同情心を持っていたため、充朗が彼らに対して注意をしたりすることはなかった。だがこの度の殺人事件を目の当たりにして、別な意見を抱いたという。
「やっぱりあれだ、変わった連中ってのは意識がおかしくなっちまうものなのさ。あいつらはもう、ただの厄介者だ」
 通報を受け、自治体自警団団長の巣辛部が、職員10名と共に事件解明に向かって調査を重ねている──。

「俺たちはやってないんだ!」蜘蛛男は謂介に向かって悲痛な叫びをもらした。
 謂介は、自宅の窓の外から突然顔を覗かせた蜘蛛男に面食らっていたが、なんとか気を取り直してうなずいた。
「そもそも俺たちは地面に下りられない。それなのにどうやって殺人を犯したりできるってんだ? それこそ地上の人間の方が、何倍もやりやすいじゃないか!」
 謂介は戸惑い、その場に正座した。なんとなく、事を荒立てないよう小さくなっていようと思った。
「地上の人間が殺したんだ! そして死体を俺たちの綱にかけたんだ。そうとしか考えられない。そうだろみんな!」
 蜘蛛男が叫ぶと、家の外から「おお」と「ああ」の中間くらいの声が聞こえてくる。どうやら他の蜘蛛人間たちも待機しているらしい。
「あんたもそう思うだろ!」
 蜘蛛男は謂介に呼びかける。
 謂介はやはり戸惑って顎をかきつつ、
「あの、僕はなんにもわからないんです。それに、どうして僕にそんなことを言うんですか?」
 謂介が聞くと、蜘蛛男は我に返ったように沈黙し、うつむいた。
「俺が罪を犯していないってことを伝えたい人間が、あんたと、あんたの母親だけだったからさ」



16、密室

 ひどくうるさい音が頭の中に鳴り響いている気がした。でもそれは、もしかしたら夢だったのかもしれない。
 目が覚めて最初に感じたのは堅い床の感触だった。体の間接がぎしぎしする。
 目を開けると辺り一面が真っ白だった。奥行きのない白色は、どこか心を不安にさせる。目だけで周囲をうかがってみるが、気になるものは何もない。この部屋にはそもそも何もないのだと思う。たぶんずっと前から何もないし、これからも何もないのだろうと思った。直感だった。この部屋を作った人間はたぶん、部屋に何も置くつもりがない。さらに想像を膨らませて、今ここにある唯一のモノ、つまり自分自身を入れておくための箱なのではないかと思った。根拠も自信もない。しかしこの部屋は牢獄に似ている。
 立ち上がって体を伸ばす。周囲を見渡す。寝ながら見た部屋の感じと立ち上がってから見た部屋の感じに差異はない。天井には照明もなく、壁自体が発光しているようだった。
 その場できょろきょろするのに飽きてきた頃、やみくもに歩くことにした。ここから見える範囲には興味を惹かれるものはなかったが、じっとしていても何も起きないであろうと予測できた。
 方向感覚がまるでつかめないので適当に足を踏み出すと、何メートルか先の空中に、小さな黒いモノが浮かんでいるのに気がつく。走って近づいた。
 十五センチ四方程度の、真っ黒な板のようなものが浮かんでいる。白い空間に浮かんでいるそれは、妙に存在感がなく、目をこらさないとすぐに見失ってしまいそうになる。板はものすごく薄く、横から見ると髪の毛一本分の厚さもないことが分かる。
 おそるおそる指先で触れてみると、薄さの割には非常に堅かった。熱くも冷たくもない。両手で端をつかんで動かそうとしてみるが、どういう仕組みになっているのか微動だにしなかった。
 板の表面に顔を近づけて表面をよく観察してみる。と──奥行きのない小さな闇の向こうから、誰かの息づかいが聞こえた気がする。
「誰かいるの?」
 思わず声が漏れた。意識していなかったが、心細かったのかもしれない。
 黒い板からは何も聞こえないし、何も見えない。さっきのは気のせいだったのかもしれない。
 他にも何かあるかもしれないと思い直し、来た道を戻りながら、最後に板の場所を覚えておこうと振り返った。
 そこにはもう、何もなかった。



(30分)



17、文豪

 いつもの公園で一人、まんじりともせずにたたずんでいると、公園の入り口に人影が見える。
 灰色の作務衣を着て、白いタオルを頭に巻いた中年男性だった。
 普段は滅多に人が近寄らない公園だけに、その姿は目についた。その上、男の格好は風変わりだった。
 木のように風に吹かれていた謂介は、胡乱な男の様子を興味深げに眺めている。と、男の方も景色に溶け込んでいた謂介を認めて、歩み寄ってきた。
「少年、こんなところで何をしているのか」
 男は居丈高に言い放つ。
「暇だったので……ぼうっとしていました」
 言いながら、特にすることもなく公園で時間を潰している自分を、謂介はなんとなく恥ずかしく思う。
「良いことである」
 男は静かに首肯し、謂介が座っていたベンチの隣に静かに腰を下ろし、静かに目を閉じた。
 何か言うのかと思い、謂介は身構えていたが、男は何も言わなかった。
「おじさんは何をしに来たの」
 男は右目を少し開いて、
「俺も暇だったのさ。他に行くところも知らなくてね」
 不思議に思った。大人には、子供より多くの自由があると思っていた。
 謂介はこの公園が好きではない。ただ本当に、他に行くところが無いので仕方なくここにいるのだった。自分と同じような事を考えているこの大人の男は、どうも普通ではないような気がしてくる。
「おじさんは仕事は何をしているの」
「俺は文豪だ」
 男は胸を反らして言う。
「文豪って何をするの」
「何もしない。毎日、ただ生きている」
 謂介は笑った。
「そんなの変だよ。それなら僕も文豪だよ」
 男は両目を見開き、謂介にぶつけるような視線を送ったあと、
「然り」と言った。
「ただ生きている他にも、文章を書いているな」
「文章って、日記とか、小説とか」
「そういうものだ」
「どうして書いているの」
「それは俺も何度も考えた。なぜ俺は書くのか。書いて、いかばかりの金を得て、それがどうしたというのか。俺は一体何がしたかったのか。いまだにわからないままだ。分からないから書くのかもしれない。俺はずっと探しているのかもしれない。本当の書く理由を」
 謂介は文豪の言ったことについて考えてみた。そして結局、分からないということだけが分かった。
 謂介と男は、しばらく何も言わなかった。ただ静かな風だけが二人の間を通り抜けていった。
「ところで少年。俺は最近、この町に越してきたばかりなのだ」
「うん」
「この町には奇怪なことが起きるという噂があって、その真偽を確かめにきたのだ。そういうことも、文豪の仕事のひとつかもしれぬと思ってな」
 奇怪なこと、というのはどういうことだろうか。謂介はぼんやり考えてみるが、大して変わった出来事は起きていない気がした。
「普通の町だよ」
 謂介が言うと、今度は文豪が笑った。
「そうかもしれないな。いや、きっとそうだ。俺は、そういう答えを求めていたのだろう。考えてみれば、自明のことだ。君はおそらく、この町で生まれ育った。言ってみれば、この町の子供だ。この町の他はきっと知らないのだろう。だから、そんなことが言えるのだ。きっと他の町に行った時、そここそが君にとっての異常なのだろう」
 文豪の一人言を謂介は聞き流す。文豪が長くしゃべる時は、きっと意味が分からない言葉を言っているに違いないと、すでに謂介の中での価値は決定されていた。



(30分)



18、二人の少年

 二人の少年が道をやってくる。どちらも全く同じ顔をしている。背丈も、体型も同じだった。彼らの姿を見ると人々はなぜか背筋がぞっとする。見てはいけないものを見たような気分になる。目をそらしたくなる。彼らは子供らしくない無表情で、横に並び、足並みまでぴったり揃えて道をやってくる。
 謂介がはじめて二人の姿を目にした時、やはり奇妙なものを見ているという感情がこみ上げてきた。そして謂介は二人を指さして叫んでしまった。
「変な二人!」
 彼らをバカにしようと思ったわけではない。だが結果として彼らは傷ついたのだろう、子供らしからぬ無表情にヒビが入り、それはみるみるうちに怒りの色に変わる。
 彼らは謂介の元へ走り寄ると、目にも止まらぬ速さで謂介の周りをぐるぐる走り回った。あまりの出来事に謂介は恐怖を覚える。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。この二人は何者で、一体自分に何をしようとしているのか。頭の中にこみ上げてくる吐き気にも似た感情のままに、謂介はワッと叫んだ。
 叫び声に驚いたのは二人だった。動きをぴたりと止めた二人の少年は、来た道を走って逃げていった。その背後をみつめていた謂介は、二人の姿が遠のくのと同時に重なり合い、ひとつにまとまってゆくのを見た。元は二人組だった少年は、謂介の視界から消える頃にはたった一人の少年になっていた。

「ということがあったんだよ」
 アイスを食べながら業田に話すと、業田は激しく頭を振りながら歌うのをやめて、謂介の顔を指さした。
「すごく簡単な話、俺は一人、そして謂介も一人、今は俺たちは二人、だから話せるし、鬼ごっこもできるし、もっと別なこともできる」
 業田は急に握り拳で謂介の頭を叩いた。
 謂介は自らの頭を撫でた。
「一人だと寂しいだろ? だからそいつは二人になったのさ。二人いれば鬼ごっこが出来るし、話すこともできるからな」
 謂介は納得した。確かにその通りだと思った。
「でも最後には一人に戻っていたよ」
「それも簡単だ。謂介が最後に叫んだ時、そいつはビビっちまったのさ。怒って謂介を脅かしたから、自分も同じことをされるかもしれないと思ったんだな。自分が何人もいると、そりゃ楽しいかもしれない。けど、怖いことや不安なことを何人もの自分が感じるのは嫌だからな、一人になったんだ」
 そうかもしれないと思った。
 恐怖や不安を分かち合うのは、たとえ自分自身が相手だとしても、難しいに違いない。



(30分)



19,タイムワープ

 目覚めてみると、いつもとは何かが違う感じがした。
 辺りを見ると、たしかに自分の部屋だった。しかしやはり何かが違う。まるでこの部屋のモノを全部外に出して、注意深く並べ直したかのような白々しさがある。
 違和感の理由はいくら考えても分からなかった。自分の思い過ごしだと考えて、謂介はいつもの公園に向かった。

 公園に着くまでの道のりにも、やはりどこかおかしな点があるように感じたが、具体的に何がおかしいのかはわからない。増幅するもやもやと戦いつつ、いつもの公園の入り口に進む。と、ベンチの上に少女が座っているのが見えた。見慣れた少女の姿だった。だがもう二度と目にするはずがないと思っていた姿だった。
 ベンチの上には灯が座っていた。彼女は両手で顔を覆って泣いていた。
 遠い昔、記憶の遙か彼方にその光景は焼き付いている。今と全く同じ姿で、ベンチの上で泣いていた彼女に話しかけたのは自分だ。
 謂介はふらふらと灯に近づくと、隣に腰を下ろした。
「大丈夫?」と声をかける。
 灯は顔を上げる。あのときと全く同じだ。次に彼女が何と言うのか、謂介は覚えている。
「お母さんが死んだの」
 謂介の体を電流が走った。記憶のままだった。自分は何らかの理由で過去を追体験していると思った。あるいはこれは夢なのかもしれない。もうどちらでもいい。このままあのときと同じように状況が進めば、灯は自殺することになる。それをなんとしても阻止したかった。
「灯、びっくりするかもしれないけれど、聞いて欲しいんだ」
 灯は目をまん丸にして驚いている。まだ自分が名乗ってもいないのに名前を呼ばれて驚いたのか、それとも謂介の真剣な表情に気圧されたのか。
 謂介が知っている灯はこんな顔を普段は見せなかった。それを考えるならばこのタイムワープは、あるいは過去の夢は、それだけで価値があるような気がした。
「僕は未来から来た。君のお母さんが死んだのは知っている。お母さんは殺されたんだってことも、僕は知っている。殺したのは君のお父さんだ。家庭内暴力の末に殺してしまったんだ。これは未来の君から聞いた話だ。でもそんなことはどうでもいい。僕は君を助けたい。いいかい、君のお父さんはこれから容疑者として警察に捕まるけど証拠不十分で無罪になる。お父さんはお母さんに向けていた暴力を次第に君に向けるようになる。君は毎日苦痛に耐えながら生活をする。そして家に帰るのが嫌になり、学校帰りによくここで遊ぶようになる。遊び相手はもちろんこの僕だ。ある日君は自分の命を自ら断つ。そして鳥になってしまう。祈り婆しか知らない変な鳥だ。僕は君のそんな姿も確かに見ている。でも、僕は君には君のままでいて欲しいんだ! 僕ともっと普通に遊んで欲しいんだ! 勝手に僕の思い出にならないでくれ灯!」
 謂介はいつの間にか泣いていた。泣きながらわけのわからない事を叫ぶ頭の狂ったガキになっていた。でも、自分が言いたいことは全て伝えたと思った。
 灯は涙を拭くのも忘れたのか、きょとんとして話を聞いていたが、突然にやりと笑い、その場に立ち上がる。いまだかつて見たことがない灯が目の前に立っていた。
「ありがとう、謂介。どうせそうなると思っていたんだ。でも、ものは考えようだね。あの人にできるなら、私にもできるはず」
 驚くのは謂介の方だった。灯が何を言ってるのか分からない。
 でも、その不敵な言い様は、謂介がよく知っている灯の姿そのままだ。
「未来で会いましょう、私のたった一人のお友達」
 そう言い残すと、灯は公園の出口に向かって駆けていった。
 ひとり取り残された謂介は、今更ながら、名乗ってもいない名前を灯に呼ばれたことに気がついた。



(35分)



20、夕陽の怪物リバイバル

 それがどんなものであれ、はじめてのことというのは記憶に残るものだと思う。
 たとえば、はじめてのデートの事。
 謂介は思い出している。

 寝不足のまま目が覚める。昨晩は全然眠れなかった。目の下にクマがあったらおかしいだろうか。笑われるだろうか。いや、そんなことはきっと気にしないはずだ。外見のことなんて。謂介は考えながら期待に胸を弾ませている。
 時計を確認する。時間は大丈夫。まだまだ余裕はある。そのための早起きだ。自分は全然余裕だ。でも油断していては足元をすくわれる。早く準備をしなくては。謂介は自分に言い聞かせている。
 階段を駆け下りて手早くシャワーを浴びた。バスタオルで体を拭きつつ洗面台で鼻毛が出ていないかチェックする。鏡には鼻の下をのばした変な顔の子供が映っている。それでいいと思う。自分はまだ子供で、映画の中のスターみたいにかっこよくはない。でもいずれきっと、スターのような顔になる日が来るだろう。あと10年、20年後には、きっとかっこいい顔になっているだろう。その日まで、彼女が待っていてくれればいいのだけれど。
 バスタオルを腰に巻いたまま部屋に駆け戻る。新しいパンツを履く。穴の空いていないジーンズを履く。色のあせていないTシャツを着る。時間を確認する。約束の30分前。いいタイムだ。最後に財布の中身を確認する。ベッドに座って、静かに目を閉じる。謂介はこれから起こるであろう楽しい出来事を、すでに頭の中で再現している。

 家を出て少し歩くと彼女の家が見えてくる。家のドアホンを押すと、おばさんが姿を現す。
「まあ謂介ちゃん、いらっしゃい!」
 おばさんはとても嬉しそうに笑っている。エプロンをつけていて、髪を上品にカールさせている。
「おばさん、こんにちは。あの、○○はいますか」
 謂介は、その名前をどうしても思い出せない。
 自分は一体、誰とデートしたのか。
「ちょっと待ってね、あの子まだ準備してるのよ。今日は謂介くんとデートだからってはりきっちゃって。昨日はちゃんと寝れなかったんじゃないかしら」
 彼女らしいなと謂介は思う。繊細なのに、大事な時にはちょっとドジで、そういうところも好きだった。
「あら、来たみたい」
 おばさんが言うと、廊下の奥の真っ暗な闇から、彼女が姿を現す。
 赤黒い唇から涎を垂らしている。のどの奥でぐるぐると奇妙な音を鳴らしている。皮膚を覆った鱗がぬらぬらと光り、体にまとわりついているボロ布のかけらが背ビレにひっかかってぶらぶらと揺れている。
「まあまあこの子ったら、謂介くんが来てるのに、もう服をだめにしちゃって」
 彼女は背ビレをぶるぶると震わせて顔を伏せた。
 恥ずかしがっているのかもしれない。フォローするのは僕の役目だ。謂介はそう思う。
「いいんです。さあ、行こうよ」
 言うと、ゆっくりと彼女が表に出てくる。
 日の光の下の彼女は、古い壁紙に浮かび上がるシミのような姿をしている。
 謂介は彼女の手を取り、凛々しく言い放つ。
「おばさん、行ってきます」
 行ってらっしゃい、と静かに述べて、おばさんが涙をぬぐった。そちらを見ないようにして、謂介と彼女は歩き出す。

 デートといっても子供のすること。行き先はいつもの公園だった。
 何故かその日は異様に人が出ている。公園内の遊歩道には露天商もあり、謂介はアイスを買った。彼女のためにもひとつ買った。
「あそこのベンチで食べよう」
 彼女は古い傷痕の残る目をひきつらせて笑っている。二人で並んでアイスを食べる。謂介が冗談を言うと、彼女はがあがあ笑う。
 一体どれほどそうしていただろうか。たくさんお喋りをしたような気がする。もっぱら話していたのは謂介だったが。それでも今日は来れて良かったと思う。彼女は楽しんでくれただろうか。恥ずかしがりで、引っ込み思案の彼女は、自分の意見をなかなか言わないが、こうして二人並んで彼女の横顔を眺めているだけで、謂介は満足だった。
 彼女も同じように思ってくれていればいいなと思う。
 そのとき、隣に座っていた彼女の手が、謂介の手に重ねられる。尖った爪は黄色く、所々ひび割れ、赤黒い何かがこびりついている。
 謂介はこのデートが成功だと確信した。
 彼女の手を静かに握る。
 公園はいつの間にか壮絶な夕陽に染め上げられている。遊具も、砂場も、ベンチも、木々も、赤いペンキをぶちまけたように赤く染まっている。
 遠くのどこかで犬が遠吠えを始めた。
 さらにもう一匹。
 さらにもう一匹。
 視界を埋める真っ赤な光景に、獣の声が被さる。
 ベンチの上に立ち上がった彼女が、同じように天に向かって吠える。背びれを震わせ、体中の筋肉を引き絞り、舌をのばして叫んでいる。
 今まで溜めていた全ての感情を吐き出すように、叫びは長く長く、いつまでも続いている。

 謂介は大好きだった彼女のことを懐かしく思い出す。
 そしていつも思い出は、たったひとつの疑問へと帰結する。
 一体僕は、何とデートしていたんだろう?



(40分)



21、スーパーヒーロー

 暗い。じめじめしている。そこら中に居もしない悪辣な虫が蠢いていそうな気がする。空を見上げると、底の抜けたような青空が広がっている。
 丸い土の壁に縁取られた空だ。
 謂介は、落とし穴に落ちていた。

 おーい、と気弱な声を上げてみる。それなりに非常事態であるという意識はあったが、それでも今まで生きてきた現実の意識が、大声を上げるという行為を拒否していた。
 普通の生活を行う上で、大声というのは異常事態だった。悪目立ちしてしまう行為だった。社会のルールはいつだって静かでいることを謂介に求めた。身に染み着いたルールは、常識という確固たる形をとって今、謂介の生命を危機にさらしている。――恒常性バイアス。
 大地震の時、津波が来ると分かっていても逃げない人がいる。彼らは日常に縛られてしまう。危機感を抱けない。謂介が陥っている状況は、まさにそれだった。危機的状況を日常の延長として処理してしまう。本当は違うのに。逃げなければならないのに。大声を上げて助けてと叫ばなければならないのに。
 それは誰にでも起こり得る。人一倍冷静でいるつもりでも、静かに取り乱していることがある。
 本来狂気とは、自覚できないものだ。
 自分が狂っていると感じている狂人はいない。
 だからこそ、まずは自分の正気を疑うべきなのだ。
 そんなことは一切考えず、謂介は空を見上げて地面に体育座りしている。
 そのうち助けが来るだろうと思いこんでいる。

 そして本当に助けはやってくる。
 穴の縁から、つるりとした人の頭の影がひょっこり覗いた。
 謂介からは逆光になってその顔は影にしか見えない。だが間違いなく人だと思う。
「キミ、何をしてんの」
 覗いているのは男の子のようだと声で分かる。
「誰かが掘った落とし穴に落ちちゃったんだ!」
 謂介は、多少恥ずかしかったが、自分の状況をはっきりと伝えた。
「ふうん」影は鼻を鳴らした。「それって楽しい?」
「えっ?」
 謂介は驚きながら、
「全然楽しくないよ。ここから出たいんだ」
「そうなの。僕に助けてほしい?」
 普通なら、と謂介は思う。普通なら言葉も惜しむほどの速度で助けようとするものじゃないだろうか。落とし穴に落ちている人に向かって、救助が必要かどうかを聞くのは、空腹で倒れている人にむかってお腹が減っているかどうかを聞くのに似ている。と謂介は思う。
 しかし何がなんでも謂介は助かりたかった。ここから出たかった。穴の中に食べ物はないし、トイレもない。前者は肉体的死に直結するし、後者は社会的死に直結する。
「お願い、僕を助けて!」
 言った後で、複数の可能性が突如として謂介の脳裏をよぎった。
 ひとつは、彼が落とし穴を掘ったのかもしれないという可能性。それなら救助が必要かどうかを聞いた理由がわかる。穴に落ちた自分を見て楽しんでいるからだ、と謂介は考える。
 ふたつめは、彼は救助を取引の材料にしようとしているのかもしれないという可能性だ。つまり助けて欲しいという自分の言葉を、一種の契約として機能させ、金品を得ようとしているのかもしれない、と謂介は考える。
 前者であればなんとかして制裁したいと思う。後者であれば、救助の労に多少は報いてもいいと思う。具体的には、あんぱん2個か、せいぜい出しても500円程度、と謂介は考えている。
 しかし、このまま穴に居続けた場合、最悪命の危機を迎えることになる。その場合、救助の礼に値するのは自分の命の代金そのものでなければならない、と謂介は考える。
 自分の値段っていくらだろう?

 謂介が思いを巡らせていると、影の姿は一瞬消える。そして見る見る大きくなって、目の前にどすんと着地した。
 それは全身に影をまとったような、真っ黒な男の子だった。
「手につかまって。ジャンプするから」
 その異様な姿に謂介はおびえた。差し伸べられた手を拒否することすらできなかった。言われるままにつかまると、さらに逆の手を胴体に回され、次の瞬間ものすごい重力が襲ってくる。
 青空に吸い込まれるかと思った。
 次にやってきたのは落下感で、今度は背筋が凍った。
 どすんという衝撃を感じて、気がつくと地上に立っている。
 膝を震わせながら自分の命を救った人に目をやって、謂介は愕然とした。
 地上に出ても、彼は全身に影をまとっていた。
「おどろいたろ。僕はこんな見た目だからさ、キミを本当に助けてもいいか、ちょっと迷ったんだ。じゃあ、僕はもう行くから」
 謂介が引きと止めようとする前に、命の恩人の姿はもう、夏の日差しの中に消えている。



(35分)



22、口紅

「兄さん、はじめての口紅は赤すぎてはいけないのよ」
 妹が言う。
「古い映画のセリフだったかしら、って言うのよ」
 謂介は、妹の意味不明なセリフに、とりあえずうなずいておくという方法で対処した。その言葉は妹の思考の枠内には無い言葉であると、兄である謂介は感じている。おそらく何かの本か、漫画から取ったセリフではないかと考えた。であるならば妹の容姿にも納得できる。
 妹は死ぬほど赤い口紅をつけていた。彼女は普段は口紅などつけないし、そもそもメイクの技術があるのかも不明だった。漫画などを読み、そのキャラクターにあこがれるなどして、突然メイクに目覚めたのかもしれない。しかし、こんなキャラクターが本当にあるのだろうか。わざとなのか事故なのか不明だが、鮮血のような口紅は唇から思い切りはみ出ており、口が裂けたような異様な有様になっていた。ひょっとすると、妹らしからぬ新手の冗談なのかもしれぬと思われたが、彼女の表情を窺う限り本気のようだった。笑おうにも笑えず、逆に妹の精神状態が危ぶまれた。
「セクシーでしょう。見違えたでしょう」
 どこから取り出したのか、手のひらにぴたりと収まるコンパクトをのぞいて、何度も角度を変えては唇をとがらせ、自分の顔をためつすがめつしている妹は、自分の知らない人のように見える。
「こんなことは本当に言いたくはないのだけれど、唇からはみ出ているよ」
 謂介は、妹の激昂を覚悟しながら精一杯の常識的言及を試行した。
 意に反して妹は、謂介の言葉を一向に省みない。
「そう。はみ出ている。たしかにはみ出ているわよね。けれど何からはみ出ているのでしょう。口紅を唇に塗らなくてはいけないと、誰が決めたのかしら? アフリカの奥地のとある原住民族は、動物の骨を削って唇に埋め込むのよ。骨は唇に埋め込むものかしら? いいえ。骨は生きるために必要なもので、本来は体を飾るものではないわ。でも彼らはそうしている。ルールなんてものは、常に限定的で、流動的なのよ。その国だけのルールがあり、その町だけのルールがあり、その場だけのルールがあり、私だけのルールがある。であるならば、私の口紅がはみ出しているのは唇からではなく、兄さんのルールからはみ出しているのよ。ただ、それだけの理由で私を咎めようというのなら、とんだ間抜けよ、兄さん」
 口を挟ませぬマシンガンのような言いぐさに、謂介が思わずたじろいだ時、家のドアホンが鳴る。救われたような気分で玄関のドアを開けると、丸美が立っていた。
 猫の耳がぴょんと震えた。そして丸美の口には、おぞましい緑色の口紅が塗りたくられていた。口の周りが緑色にぬめぬめと光っている様は、グロテスクな映画のワンシーンのようだった。
「お兄ちゃん、こんにちはお兄ちゃん」
 丸美はいつものようにほがらかに挨拶をする。容姿と態度のギャップが謂介の思考を混乱させる。
「丸美ちゃんまでそんな口紅をするなんて、驚いた。それ、はやっているの?」
 丸美は自分の口元を手でぬぐった。自分の手の色を見て、声を上げて笑う。
「お兄ちゃん! これは口紅ではないよ。さっきまでイカェルデを食べていたから、ちょっと口についちゃったみたいだよ、お兄ちゃん」
「何を食べていたって?」
「イカェルデだよ、お兄ちゃん。非イカェルデも一緒に食べたよ、お兄ちゃん」
「それは、なんなの?」
 丸美はきょとんとした後、やはり楽しそうに笑った。
「イカェルデはイカェルデだよ、お兄ちゃん」
 もし世界中の人間が自分だけのルールで生活を始めたら、きっととても生きづらいと謂介は思う。


(30分)



23、怪談

 こういう話を聞いたことがあるかな、お兄ちゃん。真夜中の砂嵐。
 ある女の子がね、東京に引っ越してきたんだって。その子は高校を卒業して、東京の専門学校に進学したの。
 一人暮らし用のマンションを借りて、不自由なく暮らしていたの。でもね、なかなか東京で友達が出来なかった。引っ込み思案な子だったのね。
 学校で話す友達は、少しずつ増えていった。でも、休日に遊んだりする友達はいなかった。その子はだんだん寂しくなってきて、地元の友人や家族に電話をしたり、メッセージを送ったりした。気を紛らわせていたのね。
 ある夜、どうにも神経がぴりぴりして、眠れなくなってしまった。話に付き合ってくれる友達はいなかったし、地元の知り合いもみんな寝ている時間だったの。仕方なく女の子は、テレビをつけた。人の声を聞けば、きっと寂しさも薄れると思ったのね。
 でも、そんな日に限ってどのチャンネルも終わっていた。やっていても、延々と山や湖を映している番組や、世界中の道を定点で撮りつつ天気予報を表示させていたりする番組ばかりだった。
 諦めかけていた女の子だったけど、最後に合わせたチャンネルには、ちゃんと人が映っていた。
 真っ白な背景の部屋のような場所に、髪の長い女の人が立っている番組なの。髪の長い女はこちらに背を向けて立っているの。その後ろ姿をずっと映しているのよ。
 女の子は、ドラマか何かだろうと思って、次のシーンに切り替わるのを待っていたのね。けれど、全然切り替わらないの。髪の長い女の後ろ姿ばかりなの。女の子はだんだん、怖くなってきた。リモコンで他のチャンネルのボタンを押した。けれど、他のチャンネルも全部、髪の長い女の後ろ姿を映す番組ばかりだった。
 女の子は恐怖に震えた。テレビの電源を切ろうとした時、急に画面が砂嵐に変わって頭がくらくらとした、次の瞬間、また白い空間に戻った。
 でもさっきの番組でないことはすぐにわかった。
 テレビ画面には、髪の長い女じゃなくて、自分の顔が映っていたのよ。
 女の子が叫ぶと、テレビの中の自分も顔を歪めて叫んだ。
 それを見て以来、女の子は正気を失ってしまって、自分の名前も言えなくなって、おかしなことばかり言うようになって、精神病院に閉じこめられているんだって。
 不思議な話だよね、お兄ちゃん。
 えっ?
 女の子が正気を失ってしまったなら、誰がこの話をしたのかって?
 あはは、お兄ちゃん、ちゃんと話を聞いてたのかな。
 女の子はテレビの中に居るのよ。
 真夜中にテレビをつけると、白い部屋に閉じこめられた女の子が、こんな風に自分のことを語って聞かせるんだって。
 ちなみに、精神病院に閉じこめられている元・女の子は、髪をとても短くしているのに、いつまでも髪をとく真似をするんだって。
 これってなんの意味があるんだろうね、お兄ちゃん。



(30分)



24、階段

 自転車を走らせ、山奥の洋館にたどり着いた。
 ここに来るのは、もう何度目になるだろうか。
 謂介がはじめてここに来た時には、期待に胸を膨らませていた。
 このような雰囲気のある、怪しい場所では、きっと何か楽しいことが起きるに違いないと考えていた。
 しかしその思いこみはあっさりと否定された。
 雰囲気はあるにはあるが、結局何も起こらなかったのだ。
 それからも何度か洋館を訪ねていた。
 面白いことも、怖いことも起きないとなると、そこはもう日常の一部でしかなかった。
 謂介は、特に何を期待するでもなく、少し遠くにある遊び場程度の認識をもって洋館を訪れるようになった。
 最初は周囲を散策するだけで満足していたが、それにも飽きると割れている窓から館内に侵入するようになった。
 室内は荒れ放題で、家具らしい家具も残っていなかったが、冒険しているような気持ちだけは味わえた。
 それからたびたび謂介は、洋館の中を散策するようになる。依然として何も起きなかったが、家にひきこもっていたり、通い慣れた公園に出向くよりは刺激的だった。

 玄関のドアを堂々と開けて入る。
 三度目に訪れて館内に入った時、玄関の鍵は内側から外してあった。
 勝手知ったる他人の家である。
 謂介はそのまま左手の廊下へ歩いていく。
 どうやら館の内部を見回っているようだ。
 時々窓から入った小動物に会ったり、町の方には住んでいない珍しい虫が落ちていたりするのを謂介は気づいていた。
「一階の左側廊下は何もなし……」
 謂介が珍しくひとりごとを言う。
 この山奥の不吉な洋館には人が寄りつかないと思い、気を抜いているのだろう。
 謂介は、洋館の構造を簡単に把握するために、玄関から見て西側を「左」、東側を「右」と呼んでいた。
 玄関は洋館を二分するように、真ん中についている。
 左側の廊下を突き当たりまで行くと、二階に向かう薄暗い階段がある。
 二階の作りはほとんど一階と同様で、ホテルの似た客室のような作りの部屋が並んでいるばかりだ。
 もしかしたら本当にホテルだったのかもしれない。
 三階には小さな図書館があるのが特徴で、そのほかの部屋はやはり客室だった。図書館に残された古めかしい本は、ほとんどが腐っている。
 三階の左端から右端に向かって歩くと、ちょうど玄関ドアがあるであろう位置──つまり洋館の真ん中──に、他の部屋とは少し様子の違うドアがある。
 関係者以外立ち入り禁止と書かれた札がドアの前に落ちている。
 ドアノブの上と下に鍵穴があり、ドア自体は重厚な金属で出来ているようだ。
 まだこの部屋には入ったことが無かった。
 謂介は、勇気を出してドアノブをひねってみる。
 きちんと回った。
 どうせ鍵が締まっているのだろうと思い、軽く引いてみると、目の前に真っ暗な階段が現れる。
 暗いことよりもドアが開いてしまったことに衝撃を覚えた。
 鍵が二つもついていたのに施錠されていないということは、大した意味がない部屋なのかもしれないと謂介は思う。
 ドアが閉まってしまわないように瓦礫で押さえつけ、真っ暗な階段を一歩一歩上っていく。
 ぎしぎしときしむ木製の階段は、嫌が応にも緊張感を高めた。
 それでも一歩ずつ上っていく。
 もう自分の手すら見えない。
 それでも何かにとりつかれたかのように進み続けた。
 もう一階分は上ったろうと思われる地点で、つま先に何か大きなものが当たる。
 とっさにかがもうとして、目の前にあるものに頭をしたたかぶつけた。
 驚きと共に前に手を伸ばすと、目の前に巨大な壁がある。
 触った感触は、洋館の内部によく使われている壁紙と同じもののように感じた。
 階段は、突然の壁で終わっていた。
 一体なんのための階段だったのか、まるで意味がわからなかった。
 謂介は階段を下りる。
 出口から入ってくる光は、まるで天国のように輝いて見える。



(40分)



25、侍

 母親におつかいを言いつけられた謂介は、珍しく商店街へと向かっていた。町の中央部に位置する目抜き通りである。シャッター街になりがちな田舎の町並みにしては、多くの商店がまだ経営を存続してるようで、通りにはそれなりに活気がある。
 卵2パックと粗挽きコショウを求め、永日町随一のスーパーに入った。
 色とりどりの商品が所狭しと並べられている。料理をしない謂介には、食品の善し悪しなどわからないし、高いものと安いものの違いにもあまり興味がない。それでもパッケージを見ているだけで心が躍る。モノを買う、手に入れるということには原始的な欲求を満たす何かがあるようだ。
 乳製品の棚を見て歩いていると、背中にどんと何かがぶつかった。
「あ、すみません」
 とっさに謝り、背後を振り返ると、鎧武者が立っていた。背丈は自分と同じくらいで、兜の中に見えている顔もまだ幼い。その上、よく見るとどこかで見たことがある顔である。
 どうやら侍の方も謂介に見覚えがあるらしく、お互い無表情のまましばし見つめ合い、
『あっ!』
 ほぼ同時に思い出したらしい。驚きの声を上げてお互いに指を差し合う。
「謂介氏!」
「丸山君!」
 二人の顔に壮絶な笑みが浮かぶ。
「わあ、久しぶりだね! 帰ってきてたんだ!」
「謂介氏こそ、久しぶりでござるなあ。拙者、夏休みを利用して、ここ一週間ほど祖母の家に遊びに来ていたところでござるよ」
 二人はもともと同級生だった。二年前に丸山が引っ越してしまってからはすっかり音信不通になっていたが、友情が消えたわけではない。謂介も丸山も、まるで兄弟のようにいつも一緒に過ごした仲だ。
「そうだったんだ! じゃあまた一緒に遊べるね!」
「そうでござるな! 遊びに行くでござるよ!」
 二人はジュースとお菓子を買ってスーパーを出た。
 その頃にはもう再会の喜びは消化されており、二人の間には懐かしい友情だけが残っている。そこに至って謂介はふと違和感を覚えた。
 丸山はほとんど変わっていないように感じられる。無邪気な笑顔は見慣れたあのころの丸山と同じだ。二年で多少背が伸びたように思う。しかしそれは自然な時間経過の結果だと思う。違和感は別にある。
「ねえ、丸山君」謂介は率直に訪ねる。「なんかちょっと変わったよね」
「そうでござるか? 自分ではそれほど変わったとは思えないのでござるが」
「うん、どことはいえないんだけどさ」
「さようか……もう、二年でござるから……」
 丸山は遠い目をした。鎧の肩当ての位置が悪いのかスーパーの袋をつかんだ手でぎこちなく直し、小さくため息をついた。
 謂介は、丸山の心の内を思う。丸山は転校した。きっと心細かったはずだ。行きたくなかったはずだ。それでもきっと向こうでがんばったのだろう。新しい仲間を作って、新しい環境に自分を慣らすためにいろいろな努力をしたのだろう。それは自分にはない経験だと思う。丸山は何かを得たのだ。成長したのだと謂介は思う。その人生経験の差が、違和感として自分に感じられているだけならば、なんと貧相な感受性だろうか。違和感という言葉で片づけてしまっては、丸山の本質を自分は何一つわかってやれない。認めよう。丸山は、以前と同じ人物でありつつ、より大きく成長したのだと。
 二人は公園に行き、ベンチでお菓子を広げた。丸山がポテトチップスの袋を「ばん」と広げた時、手甲がずれた。その様子を何気なく見ていた謂介は雷に打たれたように、違和感の正体に気づく。
 なんで丸山君、侍っぽい格好なんだろう。
 今更、それを聞くことはできない。



26、ゾンビ

「町外れの洋館があるでしょう。そこにはゾンビが住んでいるという話を知っているかしら、兄さん」
 リビングのソファーに横になって、謂介のアイスを食べていた妹が言う。
 なんとなくぎくりとした。自分が夏休みの間、洋館にたびたび出向いているのを妹は知っているのではないかと思った。もし彼女が知っているというのなら、弱みをひとつ握られているということになる。母に言いつけられでもしたら面倒だ。
「知らない」
 言葉少なに否定した。実際に知らなかった。洋館には数々の噂があるが、どれも根拠のない噂だということを謂介は身を持って知っている。
「あの洋館はもともと病院らしいの。持ち主である院長は、特殊な細菌の研究をするために人里離れたあの場所に洋館を建てた。家族も一緒に住んでいたの。病院というよりはほとんど終末医療──ホスピスのような使い方をする予定だったらしいわ。けれどある日、研究中の細菌が院内にばらまかれてしまった。人的ミスではあり得ない。誰かの陰謀だったのよ。細菌は病院中に広がり、全ての人間を死に至らしめた。そして院長も医師も看護士も患者も、病院に居た全ての人間がゾンビになってしまった。今だれもいないのは政府が秘密裏に処理してしまったからで、細菌は政府の秘密機関によって今も研究が続けられている。不死の兵士を作るための研究としてね」
 謂介は、そんなわけないだろと思った。まるでゾンビ系アクションゲームのシナリオだ。現実味がまるでない。
「もしそうだとしたら、今は洋館にはゾンビがいないんだろ? 最初の噂と食い違うじゃないか」
「そうそう、言い忘れていたわ。政府は洋館のゾンビを確かに全部処理した。けれど、あの洋館には秘密の部屋があるの。院長だけが知っている秘密の部屋よ。細菌がばらまかれた時、院長はそこに逃げ込んだの。秘密の部屋でひとり、院長はゾンビになってしまったのよ」
 秘密の部屋。あの広い洋館になら、たしかにそんな部屋があっても不思議ではない。
 謂介の脳裏に思い浮かぶのは、鍵が二つついた扉と、どこへもたどり着かない階段のことだ。あの先に、見るも無惨に腐り果てたゾンビの院長が、今も地べたを這いずり回っているのかもしれない。そう思うと、背筋がぞっとした。
「そんなのあるわけないよ。全部嘘だよ」
「そう思うなら、それでいいわ。でもね兄さん、ひとつだけ良いことを教えてあげる。秘密の部屋の扉は、横に回転する壁だそうよ。もしあの洋館に行く機会があったら、そんな壁には注意することね。大事な兄さんを食べられたくはないから」
「あの洋館に用事なんてあるわけないけどね」

 妹と話したあと、部屋にもどって時間を潰し、家を出た。自転車を飛ばして洋館に向かった。一刻も早く試してみたかった。今日は懐中電灯も持ってきている。玄関のドアを開けて三階へと駆け上がる。鍵が二つついたドアを開け、真っ暗な階段を電灯で照らした。埃が積もった階段には足跡がある。以前に自分が上った足跡がまだ残っているんだろう。照らしながら上っていく。思ったより早く壁にたどり着く。高鳴る心臓の音を押さえ込むように、壁の端を押してみる。がりっと金属のこすれる音がして、ゆっくりと壁が回転し始める。噂は本当だった。
 ということは、壁の奥にはいるのだろうか。
 院長の、ゾンビが。
 ありったけの勇気を出して、秘密の部屋に入る。
 壁の奥は、窓がたった一つだけある小部屋だった。階下の部屋とは違い、瓦礫も落ちていなければ散らかった様子もない。窓の前に置かれた机の上に、写真立てが一つ置いてある。部屋の中にあるのは、それだけだ。
 なんとなく期待を裏切られた気分で、写真立てを手にとってみる。
 家族の写真だった。
 眼鏡をかけた白髪交じりの白衣の男性と、隣に立っている笑顔の女性。きっと奥さんだろう。女性は、誰かに似ている気がする。彼女が抱えている赤ん坊。そして、カメラを睨んでいる不機嫌そうな少年。
 懐かしい気持ちになる。何故か涙が溢れてくる。
「兄さん、父さんの顔、覚えてる?」
 背後から聞こえてくる声に、謂介は首を振った。
「これを僕に見せたかったの?」
「いいえ。ただ私はゾンビを見に来ただけよ」
「そんなの、居ないじゃないか」
「いるじゃない、ここに」



(40分)



27、変な病気

 祭壇の祈り婆を中心に、街の住人が膝をついて頭を垂れている。それぞれが口の中でもごもごと祈祷の言葉を唱えていた。
 町が祈りに包まれてから、もう一週間になる。突如として永日町を襲った病は、現代医療ではどうすることもできず、町中に蔓延していた。誰も解決策をみつけることができなかった。ただ祈ることしかできなかった。
 大人達が町をあげての祈祷に入ってしまい、子供達はほったらかしになっている。
 いつもの公園には、普段は見かけない顔が大挙していた。
 大人たちはほとんど家に帰ってこないため、子供たちは安心を求め、また仲間を求め、さんざん町の中を歩き回った末にこの公園にたどり着いた。最初にこの公園に居た子供たちは、普段から公園を縄張りにしている子供たちだ。
 ほとんど公園の主と言っても過言ではない謂介を筆頭に、妹、業田、丸美が揃っていた。そこへ普段はやってこない子供たちが集まり、今や永日町の子供の大半が集まっている。
「三組の竹上も病気だって」
「うちのおばあちゃんも病気になったのよ」
「お医者さんでも治せないんだぞ」
「誰かお菓子持ってない?」
 祭りのような喧噪に、謂介はげんなりした。仲間を求めて夏休み中は随分外で遊んだが、こうしていきなり増えるとうんざりしてくる。しかも集団には何のルールも無いため、そこかしこで喧嘩が起こり、泣き声や叫び声も絶えない。大人がいないとこうも秩序が乱れるものかと謂介はふがいなく思う。
「なんだか大変なことになっちゃったね、お兄ちゃん」
 丸美は興味なさそうに言う。
「病気が一気に広まったからね」
「うちはみんな大丈夫だったよお兄ちゃん。お兄ちゃんのうちは大丈夫だったかな、お兄ちゃん」
「うん。うちも大丈夫だった。でも業田君の家は……」
「俺の、俺の母ちゃんが病気になったんだ! 本物の病気だぞ! もう治らないんだ!」
 業田は謂介の隣で吠えた。興奮しているようだった。
「業田、聞いていいかしら? 病気ってどうなるの?」
 妹が業田に聞いた。
 実際には謂介もどんな症状が出るのか知らなかった。ただ街の住人が異常なまでに騒ぎ立てるので、相当に重い症状が出るのだろうと考えていた。
「煮豆が食べられなくなるんだ」
 業田は答えた。
 妹は押し黙った。それから厳かに口を開いた。
「それだけ?」
「今のところはそれだけだ! けど他にももっと危ない症状がこれから出るのかもしれない! だから今は慎重になるべきなんだ! 最悪の状況を考えるんだ!」
 業田は涎をまき散らしながら吠えた。
「兄さん、この町を襲っている病気のことを今、業田に聞いたのだけれど、煮豆が食べられなくなる病気だそうよ。これって病気なのかしら」
 謂介は薄く目を閉じて考える。
「すごくしょうもないと思う。ぼくも今、はじめて症状について聞いたけど、それくらいだったら別に騒ぐ必要もないんじゃないかとは思った」
「お兄ちゃん、跋子ちゃん、それは間違いだよ。煮豆が食べられないってことは、空豆も枝豆も食べられなくなるんだよ。もちろん黒豆も。ビールを飲みながら枝豆を食べるのを習慣としている大人には、これは大変苦痛だよ。それに、おせち料理の黒豆が食べられないとなると、新年の喜びも半減するよ。それに外国にも煮豆を使った料理ってとても多いんだよ。これを生涯食べられないとなると、やはり立派な病気なんだよ。業田が言ったように、これからもっと違う症状も出るかもしれないし、それも不安だよ。この不安というのが、今回の事件で一番大事なところだよ。人間は、正体が分からないものや、対応の仕方がわからないものを恐れるんだよ。医学に効果がないと分かるやいなや、町中で祈祷がはじまった。みんな不安なんだよ。不安が不安を呼んで、ありもしない神に祈ってるんだよ」
 丸美はうれしそうに猫の耳を震わせて語った。
 謂介の隣で妹がため息をつく。
「でもそれだけで大騒ぎするなんて」
 妹は、今も大人たちが祈祷を捧げているであろう町の中心を冷ややかに睨みつける。
「そっちの方が病気みたいだわ」



(40分)



28,土下座

 謂介がいつもの公園に向かうと、砂場の中で妹が土下座をしていた。哀れな妹の後頭部を丸美が踏みつけている。
「えっ!」
 謂介は、驚いた。今まで見たことがない光景である。本物の土下座というものを見たことがなかったし、それを踏みつけるような卑劣な輩がいるというのも衝撃だった。
 謂介は二人に走り寄る。だが二人は、すぐそばに来ても謂介に目すら向けない。
「丸美ちゃん! どうしてうちの妹を土下座させ、踏みつけているの!」
 謂介は非難がましく言う。
「お兄ちゃんには関係がないことだよ、お兄ちゃん」
「関係があるよ! だってそれは僕のたった一人の妹なのだから!」
 叫んでも、妹は微動だにしなかった。丸美のされるがままになっている。よほどのことをしてしまったのだろうか。だとしても非人道的だと思う。こんな公衆の面前で、しかも身内に目撃された上で土下座を続けされるだなんて。
「ふうん。お兄ちゃんがそう言うなら、たしかに関係があるかもしれないよ。じゃあちょっと話をしてあげるよ、お兄ちゃん」
 丸美は猫の耳を尖らせて言う。
「この子は私のお金を盗んだんだよ、お兄ちゃん」
 謂介は衝撃を受ける。そんなバカな。たしかに妹は金やモノに汚い性格をしている。けれど人のお金を盗むような人間ではない。
「私はかつて丸美銀行という銀行を経営していたんだよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんにはお得なプランを紹介させてもらったよね、お兄ちゃん」
「それは覚えているよ。結局、僕が儲かる前に銀行はつぶれてしまったんだよね」
「そうだよ。銀行が潰れてしまったのは、この子のような悪辣な債務不履行者が後を絶たなかったからなんだよ、お兄ちゃん」
「さいむふりこうしゃって、なんなの?」
 丸美がさも当たり前のように発した言葉を自分は知らず、こうして質問しているということがなんだか恥ずかしいことのように思われ、謂介は赤面する。
 その様子を横目で窺っていた丸美は、ふんと鼻で笑った。
「要するに、借金を返さない人ってことだよ、お兄ちゃん。私はこの子に百二十万円の貸しがあるんだよ、お兄ちゃん」
 謂介はその場に倒れそうになる。とんでもない額だ。大人でも一気に返すのはとても難しいんじゃないかと思う。
「一体、何故そんなに借りたんだい!」
 謂介は妹に尋ねた。
 妹は地面に這いつくばりながら答える。
「私が借りたのは千円よ」
「じゃあ丸美ちゃんが言う百二十万円というのは……」
「それはねお兄ちゃん。利子だよ。お金は貸したら、利子というものをつけて返すことになっているんだよ。でなければ銀行を続けることはできないんだよ、お兄ちゃん」
「じゃあ丸美ちゃん、丸美ちゃんの利子の設定が非人道的だったんだよ!」
「そんなことはないんだよ、お兄ちゃん。ちゃんとこの子は私との契約書にサインをして、互いの合意の上でやりとりをしているんだから、何も問題はないんだよ、お兄ちゃん」
「一体どんな契約だったの!」
 謂介は震えながら叫ぶ。
「私のプランはいつだって良心的だよ、お兄ちゃん。世に言うトイチみたいな非人道的な借り入れ金利では誰も借りてくれないと思ったから、私は20日までは金利0円という夢のようなキャンペーンを実施していたんだよ。この子に貸したのは千円だった。20日以内に千円返すのなんて簡単だと思うんだよ、お兄ちゃん。私のメインターゲットは私と同年代の小学生だったから、そもそも借りる方も貸す方もリスクはとても低いのよ。でもそれだとやっぱり銀行が続けられないってことになるんだよ。だから私は20日で千二百割の金利をつけることにしたんだよ。返済の可能性はいつだって高いのだから、これくらいの金利をつけたって冗談みたいなものだよね、お兄ちゃん。でもこの子は返さなかった。私も本当はこんなことをしたくは無いのだけれど、契約書があるから、仕方なく泥棒の後頭部を踏みつけているだけなんだよ、お兄ちゃん」
 丸美の靴底が妹の後頭部を踏みにじっている。
 謂介は、ポケットから財布をとりだし、お母さんにお昼ご飯代と言われて渡されていた千円を丸美に差し出した。
 丸美は何も言わずに謂介から金をむしりとると、鼻歌を歌いながら公園から出ていく。
 取り残された兄妹は、手を取り合ってさめざめと泣いた。



(40分)



29,海

「海だぁ! 海だ海だ海だあああああ!」
 業田は車窓から身を乗り出し、涎をまき散らしながら空に向けて拳を突き出して叫んでいる。
 謂介も同じことがやりたかったが、後部座席の真ん中に座らされてしまったので、小さくなって我慢していた。
 右側に座っている丸美は窓を全開にして、機嫌良さそうに猫の耳をぴくぴくさせていた。左側に座っている妹は、海に来たというのにモバイルゲーム機を抱え込むようにして持ち、真剣な表情でゲームをしていた。
 フロントガラスには森に囲まれた下り坂が見えている。その向こうは、きらきらと青く輝く海が広がっている。
 謂介が見る、はじめての海だった。

「さあみなさん、ついたわよ。なんでも好きなこことをしてちょうだい。でも危ないことはダメよ? 分かったわね?」
 母親がウインクをして告げると、四人の子供たちは「はーい」と応えた。その一面だけを取り上げれば、義務教育は効果的に機能しているように見える。が、次の瞬間、子供の中の自由奔放な好奇心、冒険心、獣性が剥き出しになる。
 業田は着ていた服を魔法のように脱ぎ去り、波打ち際に向かって走り出す。
 丸美は車のトランクから巨大なクーラーボックスを取り出すと、大きなリュックから取り出したノートから一ページ破り、マジックで「ラムネ150円」と書いてクーラーボックスに張り付け、露天商をはじめてしまう。
 妹は母親が砂浜に用意したパラソルの下に寝転がり、ゲームに熱中している。海にきた意味が全くない。
 謂介は、迷っていた。
 海に行ったら何をしようか、ものすごく考えていたのに、どれも実行出来ずにいた。というよりもむしろ、謂介は四人で遊ぶことばかり考えていたのだ。だから彼のショルダーバッグにはビーチボールも入っている。みんなで何かしようかという流れになった時の為に用意したものだ。それでなくとも海なんだから、みんなで水を掛け合うとか、浮き輪で浮かんでいるやつをひっくり返して悪ふざけをするとか、ちょっと遠くまで泳いでみるとか、あるいは砂浜を探検するのも楽しそうだ。水中眼鏡を使って海底に住んでいる生物を観察するとか、すいか割りをするとか……謂介の頭の中にあるのは、とにかくみんなで遊ぶことばかりだった。まさかここまでみんなが個人主義的行動に出るとは予想もしていなかった。
 謂介は立ちすくんでいる。どこまでも広い海を目前に、砂浜でただ一人、迷子になったように立ち尽くしていた。

「謂介ちゃん、どうしたの?」
 気がつくと、隣に母親が立っている。優しい微笑みを浮かべ、謂介を見下ろしている。
「母さん、僕は一人になってしまったよ」
 つぶやくと、母親は笑う。
「そうだね。でも謂介ちゃん、みんなを見てごらん。みんなも一人だよ」
 謂介は丸美を見た。
 ラムネを売っている丸美の前には客はない。当然だった。他にちゃんとした海の家はいくらでもある。わざわざ子供が経営している店で買う必要は全くない。丸美はそれでも一人、客が通りかかる度に何か話しかけ、懸命にラムネを売っている。そこへ一人の老人が通りかかり、商品を一本買っていく。丸美はいつもの無表情だが、猫の耳はぴこぴこ動いている。あんなにうれしそうな丸美を、謂介は見たことがない。
 海に飛び込んでいった業田は、泳ぎの練習をしていた。業田が泳げないということを、謂介ははじめて知った。体を動かすのは得意だと思っていたのに、意外だった。業田は闇雲に手足をばたつかせては水の中に沈んでいった。その滑稽な様は見る人を笑わせる。指をさされる。けれど業田は一向に気にしていない。執拗なまでの努力が見てとれる。遠くない将来、彼は泳げるようになるだろう。
 妹は、パラソルの下でゲームをしている。やっぱり僕の妹だな、と謂介は思う。海らしいことを何もしていない。けれどそれは、やはり妹のやりたいことなのではないかと思う。場所が変わってもやりたいこと、それが彼女のゲームなのだとしたら、僕よりもよっぽど立派だと謂介は思った。立ち尽くしているだけの僕より、いつでもどこでも変わらない情熱を持った妹を、誇らしく思う。
 みんな一人だった。
 そして、一人を楽しんでいた。
 不平を言う人間は、一人もいなかった。

「母さん、僕にはやりたいことがない」
「うん」
「だから僕は、みんなを手伝うことにするよ」
 謂介は、まずは波打ち際の業田の元へ走る。
 その背中を見て、母親はひっそり笑っている。
「夜になったら、みんなで花火をしようね」
 それから、ゆっくりとパラソルの下に歩いていく。
 夏の一日は、まだ始まったばかりだ。



(40分)



30、スナック地獄

「兄さん、ゲームをやりましょう」
 夏休みも残り少なくなった頃、妹が言う。
 こうして夏は終わって行くのかもしれない。
 ぼうっとしたり、ゲームをしたり、この毎日がずっと続くような気持ちでいたのに、時間というものは容赦なく過ぎ去っていくものだと謂介は思う。
「いいよ。どういうゲーム」
 幻の夏の中にありながら、謂介は言う。
「バーを経営するゲームよ」
「バーって、あのお酒を飲むところ?」
「それ以外にバーがあるなら教えて欲しいところね。さあ、説明はもう十分よ。さっさと私の部屋に行くわよ」
 妹はさっさと階段を上がり自分の部屋に向かってしまう。謂介はその背中をとぼとぼとついて行く。最後に妹の部屋に入ったのは、どれくらい前だったろうか。謂介はなんとなく緊張している。
「入って、兄さん」
 部屋のドアをくぐると、そこには妹の部屋があった。
 窓際に置いてあるベッド。壁際に置かれた学習机。小さな収納ボックス。収納ボックスの上にあるのは小さなテレビと、ゲーム機。
 妹の部屋にはそれしかなかった。まるで自分の部屋を見ているようだと謂介は思う。
 妹はテレビの前に座り、すでにゲーム機の電源を入れている。テレビにはゲーム機のロゴが出たあと、ゲームのタイトルが表示された。
『スナック地獄』
 謂介は妹の隣に座り、呆然としながら画面を眺めている。
「私が作ったすばらしいバーを見て欲しいの」
 謂介はうなずいた。うなずきながら、きっとバーではないんだろうなと思った。
 画面は切り替わり、スナックの店内が俯瞰で表示された。
 カウンターの奥に立っているキャラクターは中年女性で、髪が緩くカールしている。唇は赤く、紫色のドレスを着ている。
「この女が私よ」
「……うん」
 ゲームの中のキャラクターを自分とみなしてプレイするスタイルは基本的なものだと思うが、こんなに堂々とプレイしている人ははじめて見たと謂介は思う。しかもキャラクターは妹とは似ても似つかない。そういえば妹は口紅を塗りたくっていたことがあったが、あのころから大人の女性に憧れていたのかもしれない。
「私のバーの魅力にとりつかれた客が入ってくるわ」
 妹が言うと、確かに客が入ってくる。
 体が真っ白なキャラクターで、骸骨にしか見えない。
 それからゾンビ、腐った犬、翼竜、さまよう鎧などが入ってきてカウンターの前に陣取った。
「どうかしら、兄さん」
「わからない」
 謂介は答えた。本当に意味が分からなかった。このゲームの何が楽しいのか。
「これから愚痴を聞くわ」
 酒を飲みながら怪物達が愚痴を言い始める。
『妹さん……俺はもう、魔王様にはほとほと疲れちまったぜ……』
『泣きたい夜は誰にでもあるさ……いつものやつで、癒していきな……』
 妹が選んだ選択肢はやたら渋かった。
 それから後は、妹が発言することはなかった。
 謂介は立ち上がり、静かに部屋を出る。
 夏休みが終わろうとしている。
 自分の部屋のベッドに寝転がり、謂介は静かに目を閉じる。
 こうして夏は終わっていくのだと思う。

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